第1章 近くて遠い肉(1/2)

僕は二十五歳だった。

六本木の交差点から西麻布の方へと向かう途中、人気がなくなってくる辺りに小さな入り口だけの大きな建物があった。週末になるとそこには若者たちが列をなしているのを遠目に見ながら通ることがあった。

金曜日の夜、僕はその列に一人で並んでいた。周りに一人で並んでいる人はいない。男女数人のグループや、同性同士のグループばかりだった。

そこには、僕が普段接することのない明るく賑やかな若者たちが集まっていた。彼らの話し声のリズムは速い。誰かが話せば、間髪入れずに他の誰かがもっと大きな声でなにかを言う。その声の一つ一つに萎縮し、窒息しそうになりながら、彼らの声を聞いていた。彼らは自分たちの声が他人にどのような影響を与えるかを考えたことがあるのだろうか。それとも、それは考え抜かれた結果に選択しているものなのだろうか。彼らのそばにいるだけで体が重く、息苦しくなった。

僕は指先でもう一方の手や腕の表面をなぞりながら、その肉の感触を確かめた。幼い頃からの癖だった。周りの人たちが盛り上がって話しているとき、なにをしていいかわからず、しかし、その場を去るわけにはいかず、いつもこうして自分の体を触っていた。肌をそっとなぞったり、肉を押したり、爪を軽く立てたりした。なんの楽しみもない一人遊びだったが、その感触に没頭しているといつのまにか時間が経っているのだった。

列は進み、入り口に差しかかった。カッチリとしたスーツ姿のセキュリティが、並んでいる人たちの身分証をチェックしている。セキュリティは彼らを静かに睨んでいた。その間、彼らも心なしか少し大人しくなるのだった。

僕も身分証を差し出した。この列の中で孤立していた僕にとって、この男性とのやりとりは救いのように思われた。しかし、違った。彼は僕を感情を込めずにじっと睨み、身分証を返し、邪魔だとばかりに僕を前に進むように手で促した。ここには甘えられる場所はどこにもない。それをわかって、僕はここに来たはずだった。

受付の女性に四千円を渡し、ドリンクチケットをもらう。彼女は客の女性たちと比べると落ち着いていた。この場を取り仕切る側に回った人間の自信だろうか。孤立した人間は、聞かれてもいないのに自分のことをペラペラとよく喋る。彼女に笑顔を向けられると、それが接客上のものだとわかっていてもそうなってしまいそうだった。

入り口を通ると、突然音が大きく聞こえ始め、外に漏れていた音の中に入っていくようにフロアに足を踏み入れた。鳴り響く音楽に、周りの人たちの話し声、叫び声が溶け合いながら空間を埋め尽くしている。音がひしめき合い過ぎていて、隙間がなく、声を出すことができなくなりそうだった。

そのとき、僕の体は乱暴に、横を通る男性の手で押しのけられた。その手が僕のことを力ない存在であると告げてくる。自分が小さく、か細くなって、消え入りそうになる。周りの人たちすべてが、僕を嘲笑っているように思える。自分だけがこの場にそぐわない気がして惨めだった。この現実から逃げようと体が告げているのか、目の前が霞み始め、体からさーっと血の気が引き始めていた。

バーカウンターでテキーラを頼んだ。強い酒をあおるしかなかった。一気に飲むと、テキーラ特有の目の方にアルコールが抜けていくような感覚にクラクラとした。

人で溢れ返る中を歩いたが、声をかけられる相手はいない。みんな誰かと一緒にいて、どうすればいいかがわからない。その中で、一人の女の子を見つけた。白いワンピースに、目元が強調された濃い目の化粧。ワンピースの裾からのぞく足。腕につけられた金色のアクセサリー。彼女はどこを見ているというでもなかったが、周りから見られていることは意識しているようだった。彼女が目に入ると鳩尾がギュッと苦しくなるのが感じられた。

僕はこういう人間に声をかけるためにこの場所に来たのだ。しかし、足がすくんで動けない。とっさに彼女を見なかったことにした。まだ来たばかりだ。もう少し話しやすそうな人がいたら声をかけたらいい。そう自分に言い聞かせた。

その間にも、僕の周りを人が通り抜けて行った。僕は人々が楽しそうに動く中で、一人だけ止まっていた。僕にとっては、この中に楽しみなどなに一つない。それでもわざわざお金を払ってまでも来たのはなぜだろうか。本心では、楽しそうにしている彼らのことを愚かだと思っていて、自分の方が勝っていることを確かめに来たのではないだろうか。

ショットグラスを持ったままの僕の手に、柔らかい肉がヌメリと生々しくめり込んだ。ノースリーブを着た女性がすれ違うとき、彼女の二の腕が僕の手に当たったのだ。そんなことは気にもかけていない彼女の後ろ姿を見つめながら、その感触のあとを追っていた。あの肉、あの体、彼女はこんなに近い距離にあったのに途方にくれるほど遠くにあった。

テキーラをもう一杯飲み、またフロアの中を歩き回った。そして、またテキーラをもう一杯飲んだ。緊張のせいか、自分が酔っているのかどうかがわからない。僕は最早フロアの中をなんの目的もなく、歩き続けているだけだった。そこには踊っている人たちもいれば、男女で楽しそうに話す人たちもいた。

一人、挙動不審な男性が目に入った。だらっとしたTシャツに、小汚いチノパンを穿いていた。

髪もボサボサだった。このクラブ内を周りの人たちよりも、速く動き回っていた。彼も僕と同じような気持ちでここに来たのだろうか。もしそうなら、彼が成功することはないだろうと思った。僕はそれなりに綺麗な格好をしていたが、彼は明らかに異質だった。しかし、彼の気がおかしくなっていることは理解できた。服装こそ違うが、彼と僕は同じであるとしか思えなかった。

もう声をかけられるとは思えなかった。外に出るために人の波をくぐった。彼らの体にグニュグニュと当たり、ときには強くグッと押し返され、押し返されるがままになりながら出口へと泳いでいくようにふらふらと向かった。

外は静かだった。さらりとした空気が汗ばんだ顔に当たって涼しかった。ほっと一息ついたとき、急に視界がぐらぐらと揺れ始めた。なんとかタクシーをつかまえ、家に帰った。

家に着くと、着ているものをすべて脱いでベッドに倒れた。酔いが苦しく吐きそうだったが、自分以外に誰もいない部屋のベッドの柔らかさに沈み込むと眠っていた。

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