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2021年5月10日にAmazonカスタマーサービスによって削除された斉藤幸平著 『人新世の「資本論」』への2020年9月29日投稿のレビュー

(注) いきなり削除されていたのでAmazonカスタマーサービスに問い合わせて削除の取り消しを希望したところ、30分ほどでガイドラインに抵触云々のテンプレートの返答が帰ってきて削除の取り消しも拒否されたので、ここに再掲しておく。斉藤幸平氏が批判するAmazonのようなワンクリックで何でも手に入る資本主義の極北みたいなシステムが、資本主義システムを批判する本への☆一つのトップレビューを、知識のコモンズを支えるネットというプラットフォームから削除してしまうっていう状況はなかなかアイロニカルでよい。もっと酷い罵倒したレビューは消されてないのに。しかしよく考えてみれば資本主義システムの欲望ドライブ+マルクス思想って、それってまんま近隣の某大国やん?ってことで、都合が悪い批判は削除されるのは当然の帰結のような気も。以下そのまま再掲。

『マルクスの大霊言」では近代資本主義批判になっても、減車社会への危機への処方箋にはなり得ない (10月29日再読後に追記 SDGsへの補足と資本「論」』

「眠っているマルクスを久々に呼び起こそう。彼ならきっと人新世からの呼びかけにも応えてくれるはずだ (p138)」。この一文を読んで評者は、この本は要するに「マルクスの大霊言」なのだと思ってしまったのだが、あまりに手放しで絶賛するレビューばかりなのに驚いたので敢えて☆一つ。読む価値がないという意味ではないのだが,マルクスに立脚した近代資本主義批判が広く浸透せず、また実効性も持ちえていない現状の理由が本書の論の進め方に顕れてしまっているように思えるのだ。

1. まず著者は本書冒頭で「SDGsは大衆のアヘンである!」と、マルクスにならって声高に宣言したかったようだが、いきなり大きな見当違いをしている。最近、巷で皮相的な「SDGsビジネス本」や「SDGsビジネスモデル」が氾濫し、いわゆるグリーン・ウォッシュならぬ「SDGsウオッシュ」の様相を呈していて、アリバイ作りというかこうした便乗ビジネスには評者もつくづく辟易しているが、本来SDGsに込められた理念と設計は単なるアリバイ作りではない。SDGs達成度を計測する指標として200以上の項目が設定されているが、その1/3以上は、特に途上国において、これまでデータがまともに取られてきたことがない指標である(例えば生物多様性関連指標とか)。つまり筆者の言を借りれば、これらは「犠牲を不可視化」され「外部化された環境負荷」のデータであり、その実態をなんとかして可視化しようという試みがSDGs達成の下に世界で行われているということを著者は全く理解していない。こうした試みを「アヘンである」と勢いよく切って見せた後で、著者は何に基づいて透明性のある対策を産み出そうというのか。本書を最後まで読んでも、不可視された犠牲を可視化して、環境負荷を内部化する具体的な枠組や方法論が著者から示されているわけではない。また本書の中で様々な環境関連データを著者は引用して自らの論を補強しているが、引用している研究成果をあげている世界的な研究ネットワークがSDGsの成立にも深く関わっていることを著者はどう考えるのか。そもそも人と環境の関係の複雑さの全貌は、まだ私たちの全然理解の届かないところにあるのだ。その複雑さを外部性として切り捨てて成立しているのが、今の資本主義の主流派理論であって、SDGsを推進することで現代の資本主義経済の外部性を可視化しようという試みを日本の状況だけ見て切り捨ててしまうことで、冒頭から本書が批判する対象と同じ過ちを著者は結果的には犯していることになっている。だいたい国連SDGsを「大衆のアヘン」を呼ばわりすなら、著者が持ち上げるグレタ・トゥーンベリを「大衆の偶像」だと糾弾しないと話の辻褄が合わないだろう。彼女が最初に脚光を浴びたのは国連の舞台なのだから。

2. 現在使われている意味での地質年代を「人新世(Anthropocene)」という用語を1980年代半ばに最初に使ったのは生態学者のユージン・ストローマーであり、ノーベル化学賞を受賞したパウル・クルッツェンではない(p.4)。調べればすぐわかることだが、2000年にクルッツェンとストローマーが共著論文で、その後2002年にクルッツエンが単著でNatureに載せた「Geology of Mankind」がきっかけで広く知られるようになったでのある。また、人新世はまだ正式には新たな地質年代とは認められていないが(2021年に正式決定の予定)、欧米では早い時期から厳密な地質学的な年代としての「人新世Anthropocene」という用語と、一方で主に人文社会科学の分野で人間の経済活動がもたらした地球環境危機の時代という漠然とした意味で「人新世」という言葉が広く使われるようになっており、当初からその混用がもたらす語義の拡大解釈や混乱に「ソーカル事件」を念頭に懸念を表明する研究者が多数いた。タイトルに「人新世」を謳いながらこうした基本的な事実誤認があるようでは、「マルクスが地球環境危機に有用である」という主張をノーベル化学賞受賞者の名前で権威付けして補強したいがためのアリバイ作り程度にしか、この著者も人新世を巡る議論を理解していないと思われてしまうのではないか。ちなみに日本においては、気候系の自然科学分野では「人新世」ではなく「人類世」という訳語が使われている。

3. 本書で紹介されているエコロジー経済学を始めとした非主流経済学、Political Ecology、文化人類学、世界システム論や従属理論といった分野からの帝国主義批判・資本主義批判・新自由主義批判は特に目新しいものではない。本書にも引用されているが、ナオミ=クラインの「これがすべてを変える」で紹介されているような事例と同じと言えば同じである。当然、著者は同じような事例を紹介しながらも、本書の主題としてこうした批判の源流を後期マルクスの論考に求めて「マルクスの遺言」として現代的な意義の復興を目論むのであるが、ここで評者の疑問は、マルクス以降の自然科学・社会科学の成果を取り入れた現代の資本主義批判を、後期マルクスの論考にこういう形で無理矢理に紐付ける必要がどこにあるのだろうかというものだ。今、私たちが直面している経済格差と環境危機に対する処方箋は、マルクスの遺言かどうかは、マルクス研究者以外にとっては有り体に言えばどうでもいいのであって、その処方箋がそれぞれの文化・社会に適用した時に効くかどうかだけが私たちの問題なのである。後期マルクスの論考は多くの研究者・マルクス主義者も誤解しており、資本主義がもたらした環境危機=物質代謝の攪乱に対するエコロジカルな意識の萌芽が後期マルクスの論考にあることがMEGAプロジェクトで明らかになりつつあるということの学術的な意義と、実はマルクスは現代の危機についてこうまで預言していたのである!とその先見性と無謬性をアジテートするのは全く別の話だと思うのだ。というのも、例えばエドワード・サイードがマルクスに対して欧州優越主義であると批判したことに対して、マルクス研究者ですら今発見しつつあるマルクスの論考を根拠にサイードの見方を一面的である著者が主張するのは、贔屓の引き倒しというかサイードにとってはなんとも不公平な批判にしか思えない。

4, 冒頭での「一面的」な著者のSDGs批判にあるように、批判対象を矮小化して自らの正当性を主張するやり方そのものが、古くは日本における労農派と講座派との間の日本新本主義論争に見るように、マルクス主義が求心力を失った原因の一つではないのか。国連SDGsの理念には、マルクスの帝国主義批判の影響を受けて第二次大戦後の国連の舞台で先進国の横暴に対して今で言うグローバル・サウスの立場での論陣を張っていた開発論者たち、例えばプレビッシュ、ジンガー、ミュルダールらの思想の水脈が反映されている部分がある。つまりSDGsはマルクスの蒔いた種子が時代を経て現代的な形で芽吹いているという面があるはずなのだが、そうした派生形ではなく、「彼なら「人新世」からの呼びかけにも応答してくれるはずだ (p.138)」というように御本尊そのものを召喚して、現代社会の直面する危機へ処方箋としてマルクス主義を復興させたいというの著者が望むところであれば、それは本末転倒というものであろう。そもそも公正な社会の建設や(今より小規模なレベルでの)環境危機への対応は、近代資本主義の勃興とそれに対置されるマルクス主義の対立以前から世界各地で人間社会に存在していた問題なのであって、それに対する処方箋も世界各地の文明や社会に存在してきた。共産主義やマルクス主義が、今でもFxxkよりも禁忌な言葉である場所が存在するこの世界で、著者のいう「脱成長コミュニズム」という統一的な旗の下に万国の市民が結集できると思うのはあまりに夢想的なのではないか。一方でそれぞれ地域の文化に深く根ざした仏典、コーラン、ヒンズー経典や先住民族の文化を丹念に掘り起こしてSDGsとの親和性を確認することで文化多様性を尊重しながら現代的な社会発展との融和を計りつつ、持続的な社会の(再)構築の処方箋を見つけ出す努力が進められているが、著者の主張する統一的な「脱成長コミュニズム」パラダイムには、こうした社会の生存様式・存在様式の多様性を担保するものがあるとは思えない。また、繰り返しになるが多様な生存様式を互いに尊重し自らの価値感を押しつけあわない有り様がマルクスの原典に紐付けられる必要も感じない。

5. こうしたマルクス回帰のための著者の我田引水については、ピケティに対する言及(p.287)に関しても見られる。ジジェクの批判を援用して、「ピケティが「社会主義」に転向した」とかマルクス陣営に鞍替えしたような印象を与える恣意的な記述をするのはどうなのか。「21世紀の資本」出版後のピケティが、そのタイトルにもかかわらず”Capital et idéologie”カンファレンスで共産主義・社会主義からの影響を問われて、「資本論は読んだことがないから考えがわからない」と答えているように、彼は慎重なまでにマルクスとの距離を取っている。これはジジェクを含むマルクス主義者が不可視化された資本主義の搾取や環境負荷を理念的に批判する一方で、データと実証分析でそれを可視化する努力を怠っていることへの暗黙の批判であろう。ピケティのグループが進めている仕事はまさに近代資本主義に内在的に存在してきた問題を可視化することで処方箋を見つけようという地道な努力なのだから、安易に一緒くたにされても困るはずなのだ。アンドレアス・マルム への言及に関しても同様で(p.240)、彼はPolitical Ecologyか環境人類学の研究者であって「マルクス主義の歴史家」ではないだろう。この章で展開されている水やエネルギーに関する筆者の主張はエネルギー科学・水文学といった分野が専門外なのでしょうがないのかもしれないが、理解のレベルが低すぎる。人類は水力を捨ててもいないし、人類史上で土地や水が安定的に「潤沢」であったことなどない。今、著者の目に土地や水が潤沢に見えるとするなら、それは言うまでもなく化石燃料のおかげとしか言い様がないのだが。産業革命時の化石燃料が広がった理由は資本の囲い込みや希少性云々の話ではなく、1単位の石炭投入で蒸気機関を使ってそれ以上の石炭が採掘できるという、それまでのエネルギー利用に関する制約を突破するまさに革命的な強みがあったからである。筆者の理屈でいえば、別に木材・木炭でも独占できるし持ち運びも出来るのだが、木炭では投入した以上のエネルギーを得ることはできないし、化石燃料とはエネルギー密度が圧倒的に違う。マルムの議論もそうした化石燃料のエネルギーの特性を前提にして資本主義社会発展への影響を論じているだが、エネルギーやら物質を扱う自然科学に関する理解が浅いがために引用の仕方が自らの主張を補強するための恣意的なものになってしまっている。「マルクスの遺言」を引き継ぐというのであれば晩年まで化学・農学・生物学・物理学などの当時の最新の成果を出来うる限り自らの思想に取り込もうとしていたマルクスに敬意を払って、この著者も他の学問領域への理解を深める必要があると思うのだが。

6. またマルクスはあくまで自然と人間を二元論的に対置しており、著者の主張もそれを媒介する労働と生産様式のあり方の変革を促すものだ。しかし自然と人間が一元論的に存在している社会があることを西洋もついに「発見」しているが、これもマルクスの系譜を引く構造主義―文化人類学の成果の一つなのだ。資本主義経済の搾取の対象となった「コモン」あるいは「コモンズ」といった自然共有資本については、自然-人間の関係が一元論的である世界観に基づく利用のルールが何世代にもわたる持続的な利用を担保してきた例は極めて多いのであって(例えば一元論的な世界では、自然は人格化(あるいは神格化)され、人間の関係は「労働と生産様式」ではなく互酬性を帯びた「奉仕と贈与」であり得る。未開な考えとして虐げられて来たわけだが。ゴールデンカムイで紹介されるアイヌ文化が一番わかりやすい例かも)、ということはマルクスの原典に忠実であろうとすればするほど、異国の神を呼び戻して二元論的な世界観とその世界認識の瑕疵を再び押しつけることになり、その意味ではサイードの批判は今なお有効であろうと思うのである。

7. 前述したようにマルクスの資本主義批判は、様々な学問分野でマルクスの時代に存在しなかった科学的知見も取り込みながら様々な学問分野で影響を与え続けて進化・発展している。その意味で後期マルクスのエコロジカルな思想の全貌を詳らかにするという著者の研究には敬意を払うものであり、その知られざる構想を紹介する部分については☆5つではある。が、ここまで批判してきたように、本書はあくまでマルクスのオリジナルな思想を、現代社会への処方箋としての復活を唱える呪文としか読めないので☆1つ。青木孝平が「コミュニタリアン・マルクスー資本主義批判の方向転換」で近代資本主義思想の背景となっている方法論的個人主義・リバタリアニズム批判として、コミュニタリアニズムとしてのマルクス主義という読み替えを行っている。下手にマルクスへの原点回帰を目論むよりは、青木の道具主義的な方法論の方が現代的なマルクスの読み方として評者にはよっぽどしっくり来て有効だと思うのだが、原理主義の方々には原典軽視に見えて我慢ならないのだろうか。マルクスに対する広く一般の誤解を解くという筆者の目論見は、本書の論理展開では、一つの旗の下に集まりたがるわりには、小異について延々内向きで非建設的な議論で時間を浪費し続けるリベラルさん達にしか届かないだろうなあというのが一番残念に思うところなのだが。

(10月29日追記)
他のレビューが☆5つの大絶賛が並ぶ中での☆1つの、しかも長文のレビューが最上位に上げられているということは、本書を手に取り問題意識に同意出来ても、違和感を感じる人が多かったということなのだろう。再読して見たが、初読時に比してより恣意的な引用と論理の破綻がより目に付いただけだった。本書での現代の資本主義批判は、現代の自然科学や社会科学の成果を著者が後期マルクスの「レンズ」を通して解釈してつぎはぎしているだけで、マルクス経済学の理論的な立場を現代的に再構成して批判するものではない。そもそも現代の環境危機を反映してのマルクス的な「資本」の論考にすらなっていないとも思う。批判しているばかりではどこぞの野党みたいなので、参考になったという評価をつけた方々に向けて対案とまではいかないかもしれないが、補足と評者として考える方向性を追記しておく。

上記のレビューでも書いたように著者はSDGsの本質を理解してない。さらに言えば、SDGsには本来グローバル資本主義・新自由主義に対する「毒」が仕込まれていることにも気づいていない。逆に、グローバル企業やブレイクスルー・インスティテュートのような新自由主義の側はそれに気づいているからこそSDGsをアリバイ作りにつかって骨抜きにしようとしているのであって、本書で提示する現状認識と問題設定であれば、著者がまずすべきはSDGsの否定ではなく「免罪符」とされることへの徹底した抵抗を掲げなければいけなかった。マルクスの亡霊に引っ張られて初手から間違っているのだ。

SDGには17の目標が設定されているが、基本的には等価で全部大事という理念で目標の優先度はそれぞれの国や地域の実情に合わせて推進していくという国際的な合意がある。これがいかに画期的なことか。SDGsにおいてはSDG8「経済成長」は17のうちの単なる1目標でしかない。世界銀行やIMFが長年に渡り主導してきた資本主義的経済成長を優先せず、中米のコスタリカのようにSDGsの理念に基づいてSDG16「平和」とSDG13,14,15「環境保全」を国家の社会経済政策の中心軸に据えるという選択を取る国の意思は尊重されなければならない、ということが合意されているということなのだ。つまりSDGs達成を目指すことで脱成長へと舵を切ることが可能になる枠組が用意されているのであって、ここにSDG12「持続可能な消費と生産」を加えてもいい。SDG12を突き詰めれば大量生産・大量消費という資本主義経済の原動力からの脱却を図らざるを得ないことになる。

近代資本主義のバックボーンたる新古典派経済学の理論は、その数学的頑健性を根拠にこれまで数多の批判を寄せ付けてこなかったわけだが、その理論的数学的頑健性を保証するために不可視化されてきた「外部性」、搾取や環境負荷がSDGsを推進することで可視化されて「外部性」では済まされないということが明らかになれば、グローバル資本主義経済の理論的支柱が揺らぐ可能性が高まる。 (新古典派経済学な意味での)社会的厚生の向上のための経済成長を一義的目標として組み上げられた理論体系は、SDGsの枠組で気候変動や生物多様性保全が社会における経済成長と等価の社会発展の目標として扱われるだけでも現実との整合性と信頼を失うことになる。これがSDGsに仕込まれている「毒」だ。グローバル資本主義に抗うために、コミュニズムの旗を掲げるのとSDGsが骨抜きされないように監視しながら本来の意図に沿って推進するのと、どちらがより現実的な選択は言うまでもないだろう。

経済学的な見地からもう一つ突っ込みをいれておくと、著者は脱成長コミュニズムの柱として「使用価値経済へ転換」すれば大量生産・大量消費のから脱却できるようなバラ色の話をしているが、著者も例を出しているリチウムイオン電池に使われるコバルトを考えて見よう。コバルトはコンゴ民主共和国に集中して存在している資源だが、国際市場での「価値=価格」はあっても、コンゴの技術レベルを考えるとコンゴの国民にとってコバルトの「使用価値」は存在しない。では、誰にとっての「使用価値」でコバルトの価格は決められるべきなのだろう?マルクスの時代の資本は、鉄・カルシウム・炭素・銅・鉛など高々10種類以下の元素で構成されていたので資源の地域的な偏在性がそこまで問題にならず、また経済や技術レベルに現代ほど地域格差が広がってはなかったので、世界のいろいろな場所での資源の「使用価値」に大きな違いがなかったのだが(当時では労働価値の地域差の方が大きい、なので当時の経済思想では労働や搾取が議論の中心になっていた)、現代ではウランやらニッケルやらレアメタルやらレアアースやら地域的偏在性の高い資源が生産に必要な経済になっているので、そうした資源が埋蔵されている場所での「使用価値」と利用される場所での「使用価値」が全く異なってしまっている。国際市場での需要と供給でコバルトの価格が決まるという主流派経済学も環境負荷の外部性を扱えない一方で(もはや不可逆的な環境破壊に外部性への補償原理が成り立つ訳がない)、こうした現代のグローバル商品の属性については、価値と使用価値に分類するマルクスの設定も無効な事例が数多く存在しているのが「人新世」の経済システムなのであって、要するに本書が展開する主張も批判対象も世界経済の基本設定が18世紀から大してアップデートされてないのだ。これが多くの読者がなんか違うなあ、と思う理由の一つなのだと思うし、評者が「マルクスの大霊言では処方箋になり得ない」と言う理由でもある。

マルクス経済学の用語でいえば、マルクスが格闘していた(そして理論体系を打ち立てるのに失敗した)国際労働価値論の、グローバル経済における資源版みたいなものであって、これは確かにマルクスの時代には想定されていなかった問題ではある。ただ途上国に存在する資源や第一次産品の価格が不当に低く押さえられていることがが南北経済格差と環境不正義の原因の一つである。にも関わらず、著者が後期マルクスに立脚した「理論」とかいう割には、現代のグローバル経済の「資本」を構成する資源の国際価値論のマルクス的再検討という核心の所が本書からは抜け落ちているのである。なのでこの追記の冒頭に、そもそも資本の「論」にすらなっていないではないかと批判したのだ。気候変動だの地球環境危機だの煽ったわりには、脱炭素社会を構築していく上でどうしても必要となる稀少な資源を産出する国に対する正当な対価をどう設定して応分の負担を共有していくかという分配理論を避けて通って、使用価値への転換だの、グローバルサウスに学べとか言われても何だかなあだし、エコロジカルな取り組みをいくら進めようと物質収支的には外部からのエネルギーと資源を消費する場でしかない都市の連帯とか耳障りのない話で締め括られてもねえ。世界の農村部にはまだ未電化の生活している人口が10億人以上いるんですけど。多分著者のいう連帯の輪の勘定には入ってないんだな、うん。クリーンエネルギーでの電化を目標に掲げるSDGとかどうでもいいらしいし。


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