削除された 柿埜真吾著『自由と経済成長の経済学 「人新世」と「脱成長コミュニズム」の罠』 Amazonに投稿した☆1つレビュー

(注)万が一にでも私がこの批判本の著者であるとか思われたら憤死するレベルの屈辱なので、2時間ほどで以下のレビュー書き上げて☆1つでAmazonに投稿しておいた。また削除されそう。というか1週間しか持たずに削除されました。


「マルクスの大霊言」を下回るクオリティの批判本。B級思想ポルノの目眩くバトルにようこそ

評者は斉藤幸平氏の『人新世の「資本論」』を☆一つで批判したAmazonの+2000のトップレビューを削除されたものだが、一年が経ちようやく商業出版された批判本。まさにそのためだけに出版された本だが、残念ながらこちらの方が輪をかけて質が低い。事実誤認と恣意的な引用と妄想にみち満ちていて突っ込みどころしかないという意味では、「争いは、同じレベルの者同士でしか発生しない!!」という煽りをしたくなるが、著者の学術的なオリジナリティが全く見当たらないという意味では『人新世の「資本論」』を下回る。というのも、この著者は前半部でマルクス主義の歴史的失敗を並べ立てて批判をしているが、ハイエクやらフリードマンあたりの主張に則って冷戦時代とソ連崩壊後に散々なされて手垢のついた議論の劣化コピーを延々と書き連ねているだけだからである。しかも随所に差し込まれるのは著者の誤解やら妄言という目眩がするような代物で、ワクチンの副反応の再発を疑うレベルの頭痛がしてくる。

事実誤認でいえばレーニンの帝国主義論を批判したいがために、「植民地は経済成長に必要ない」(p.95)のような項目があるが、資本主義を擁護する経済史学者ですら今やそんなことを主張しないというレベルの妄言 (実際にこの項目には参考文献の引用すらないという著者のただの感想)。確かにベルギーもスウェーデンもドイツも植民地獲得に乗り出したのは時期は遅いが、ライバルである植民地を保持していた英仏蘭といった列強に経済成長で遅れを取らないためであるというのが一般的な共通理解であり、またスイスは植民地を持たなかったが植民地を持つ列強の経済活動に歩調を合わせて奴隷貿易から富を蓄積していた歴史的事実もある。このレベルの経済史の理解で植民地主義・帝国主義批判に対する反論が成立していると思うんですかね、この著者は。大英帝国の国内植民地となっていた隣の島の近代史くらい参照したらどうか。ジャカイモ飢饉を知らんのか。

また「南北戦争でアメリカからの綿花の輸入が途絶えても、イギリス経済は破綻しなかった。エジプトやインド産の綿花に切り替えてすぐ立ち直ったのである(p.99)」とか、当時すでにエジプトもインドも完全に大英帝国の勢力圏に組み込まれていたんですが。エジプトがイギリス向けの綿花輸出のモノカルチャー経済に構造化されて(保護国化された20世紀初頭で80%の輸出が綿花)、今に到るまで水不足と塩害に悩まされることになり、インドに至っては産業革命以前に世界最大の綿織物輸出国だったのが、最大の綿花輸出国かつ最大の綿織物輸入国に転落した。これはイギリスがインド産綿織物にバカ高い関税をかける一方でイギリス産綿織物は無税でインドに輸入され、またインドの綿織物手工業は物理的にも徹底的は破壊されたからである。これが筆者の礼賛する「自由貿易」に根ざした資本主義的経済成長の始まりだが、これのどこが「自由」で「ゼロサムゲームではない」んだか。

長らく西洋中心・優越史観が支配していた産業革命と経済成長の経済史の見直しはポメランツの『大分岐』以降、様々な歴史的資料や統計を掘り起こして進められている話で「産業革命は英国だけの特殊なな出来事ではなく、世界の全ての国が貧困から脱出していく普遍的なプロセスの一部である(p.96)」という、これまた根拠のない虚妄に対してはインド系アメリカ人の経済史家Parthasarathiの「産業革命はイギリスにとっての工業化のきっかけだったが、インドにとっては脱工業化から農業国への転落の始まりであり、その後近代化するまで200年近くを必要とした」という言葉を返しておく。

筆者の専門分野としては比較的近いであろう経済に関する記述ですら目眩がするほど酷いが、本書の最大の目的である後半の「人新世の『資本論』」批判では気候変動・環境問題関連の記述はもはや他の研究者に対する冒涜とも言えるレベル。例えば、「気候変動が飢饉をもたらすと主張するが、温暖化対策はむしろ飢饉のリスクを高める。(中略) 厳しい温暖化対策は飢饉リスク人口を7800万増加させるという推計する (p159-p160)」とあるが原論文の真意が歪められて引用されている。Nature Climate Change掲載の原論文では、8種類の異なるモデル上で様々な対策シナリオを走らせたリスク評価の結果、「もし厳しい温暖化対策がすべてのセクターに一律に実施されたとするならば、サブサハラや南アジアのような脆弱な地域では食料の安全保障にリスクが生じる可能性がある」という結論であって、さらにこの著者のような歪曲した引用をしかねない懐疑論者に向けて、わざわざ次の一文を付け加えている。

「この研究結果は気候変動対策の重要性を軽視するものでもなく、気候変動対策が一般的に良い結果より悪い結果をもたらす原因となるとは解釈すべきではない」

世界の名だたる研究機関の22名の共著者が名を連ねた論文の真意は自らの主張のためなら無視ですか。単純に著者の英語の読解力が中学生以下なのか。そういえば自然科学の地道な成果を政治やら経済やら思想信条の思惑で、都合よく適当に解釈したり捨象したりするのがコロナ禍になってから余計に目に付くようになった気もする。コロナの専門家会議に参加してる経済学者ってなんか仕事したんですかね。

つづいて著者は「飢饉の原因は絶対的食料の不足ではなく、貧困層の所得の悪化…」とセン(2000)の言葉を引用してるが、これ、そもそも原著が1981年なんですが。気候変動がもたらす影響はその後40年以上に渡って世界中で研究が進められデータが蓄積され、懐疑論に対して丁寧に反証する結果を積み重ねて先日発表されたIPCC第6次報告書にまとめられた訳だが、40年前にまだ気候科学者の間でも懐疑論者が多くいた時代のセンの主張を、自論を補強するのに引用するってのは研究者の言論としては誠実さに欠けるんじゃないですかね?

「根拠に乏しい温暖化終末論」(p.157)で「ほとんどの経済学者は、斉藤氏の考えるような事態は起きないと考えている」とあるが、斉藤氏の理解の是非はさておき、専門であるリーマンショック・ユーロ危機のような直近の金融市場の信用危機ですらほとんどの経済学者が予測も出来なかった中、専門外の気候変動の長期的な影響を経済学者が楽観的に見積もってることに全幅の信頼をおく根拠がどこにあるのか著者に聞いてみたいものである。そのレベルの楽観論ならこの著者でも理解できるっていう以外の理由を。

シンガポールは資本主義国家だけど全体主義ですよね?とか、共有資源(コモンズ)の共同管理を資源の持続的管理の方法として着目した研究がオストロムがノーベル経済学賞を取ってますよね?とか、斉藤氏の著作以上に突っ込みどころしかない本ではある。マルクス・アレルギーの一般読者やら経済評論家やらが絶賛するのは、そういう読者層に向けたB級思想ポルノだから理解できなくもないが、それなりに名前の知れた経済学者が推薦したりというのはさすがにどうなのかという常識とか良識を疑うレベル。著者については研究者としては自殺行為レベルの戯言を振りまいていてご愁傷様。別の道で輝ける場所があるといいねとしか。

こういう単純化した議論で二極化された膠着状態に得をするのか、安心するかする連中が、右にも左の側にもいるんだろうなあというのが両方の本を読了しての感想。単純な二項対立って一番状況をコントロールして予測がしやすいと誤認しやすいのは、多分それはそうで、例えば感染対策強化vs経済再生とか。ただ、それぞれの自陣営の主張と内部の強化には繋がっても、相互理解を深めてと断絶を埋めて現実的な新たな解決を探るということにはなんの役にも立たないってところは、宗教原理主義の手法と同じで、今後訪れるかもしれない危機的状況には対しては何の備えにもならずに有害でしかない。単純化されて捨象されたところに、想定外の危機的状況の遠因が潜んでいることはよくある話なわけで。

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