パープルレイン1989
パープルレイン 1989
靖国通りの脇から入る地下広場。
その一角にある老舗のROCKバーから出ようとしてた。
傾斜が緩やかで幅広い階段は地上から届く紫色の光に淡く照らされていて、いつもの夜明けの色とは違うと思った。
『雨だよ。雨』
酔っ払っていたナオミは、それだけは判るのか、吐き捨てるように言った。
彼女は被爆した植物のように踊り場にしゃがみ込んでいた。
彼女が言うように遠くから豪雨の音が膨らんできてるのが判った。
突然堰を切ったかのように、水の流れが階段と並列した側溝に押し寄せてきた。2メートル位の幅がある側溝はナオミのいる横で蛇行してウォータースライダーのように階下に向かっている。そこを凄まじい勢いで雨が濁流となり落ちていく。
凄い音だ。
豪雨が真上に来たのか、徐々に紫色の光線も弱まり、さっきより暗くなって来た。
ゲリラ豪雨って言葉はその頃はまだなかった。
『ほら、立てよ。やばいなこれ。出よう』
僕は彼女の両手を掴んで引き起こした。手を払いのけ、突然目を覚ましたような口調で彼女は言った。
『キスはするなよ・・二度とするな』
『してねーよ、あん時はお前からだろうが。ほら、行こう、ちょっと走ればすぐ地下鉄の駅だ』
『違うよ。したのはキミだ』
『キミって、お前』
『もう少し雨が収まるの待ってようよ、夜明けにずぶ濡れはヤだなぁ』
そんなことより、水嵩が増している。
本当に危険を感じてきた。
『マスターに言った方がいいか?店大丈夫か?』
『大丈夫よ。これって雨の通り道なんだよ。多分誰かが川の水門を開いたんだよ。ここはね、九段下から通じている共同溝の上なんだよ。この下は深くて超デカい放水路なの』
『放水路?なんだよ、いきなり土木専門用語かよ』
『地下二階にはね、水道局の施設があって、放水路にも降りて行けるようになってんだよ』
成る程、しかし、そもそもなんでその上にバーなんかがあるんだ? 都市伝説の臭いがした。
『そう言えば一階にもコンクリートの用水池みたいなのがあったな、そこがあふれ出したんじゃないのか?』
僕は怪訝に言った。
その時、突然、側溝の激しい濁音に紛れて何かが飛んで来た。
パタパタパタっと、羽根の音が襲い掛かる。
一瞬コウモリに見えたが、そいつは暴力的に僕の首筋に当たって来た。当たった時にヌメッと嫌な感じがした。
僕は思わず悲鳴を上げ、腰を抜かして尻もちをついた。
半口をあけ唖然としたナオミは、踊り場に落ちているそれを見た。
大きな羽根を気が狂ったようにバタつかせながら、背骨を左右に激しくクネらせている。
気持ち悪い。
真鱈な色なので一瞬蛾に見えたが、蛾にしては大きすぎる。
それは羽根のような大きな鰭(ひれ)を持つ『魚』だった。トビウオのムードではない。
見たこともないような不気味な感じだ。
現生生物とは思えなかった。
古代魚?
ここは新宿だ。
一体どっから飛んで来たんだ?
『マジかよ』
僕は呻いた。
腰を抜かしたまま後ずさる僕をみて、ナオミは声をあげて笑い始めた。
『多分、側溝から飛び出したんだね。上の用水池から水と一緒に流されたんだよ。きっと』
と、彼女はあっけらかんと分析する。
『いや、上から飛んできたぞ!』
まだ終わってない。
その古代魚は動きがますます凶暴になっていく。哺乳動物のようなしっかりした意思が感じられ、なんだか肺呼吸してるかのようだ。
また飛ぶんじゃないか、こいつ。
ふと、『殺人魚フライングキラー』と言うB級ホラー映画を思い出した。
僕のそんな恐怖を次のナオミの行動が置き去りにした。
酔っ払ってるから少々OKなのか、彼女は体長15センチはありそうな魚の尻尾を勇敢にも素手で掴み、手際よく側溝に投げ戻したのだ。
魚はあっと言う間に雨水の流れに飲み込まれ階下に消えていった。
魚を助けたのか排除したのか、ナオミの行為は意味不明だった。
『おまえ、まじかよ。。』
『マスターから聞いたことあるよ。共同溝の貯水施設にはアフリカ産の変なサカナが繁殖してるんだって』
つまり、助けたってことか?
『あんたさぁ、キャーって、女の子みたいな声あげてたよ?おかげで酔いが醒めたよ』
と、またナオミに笑われた。
笑われながら固まっていると、巨大な恐竜が去っていくかのようにゲリラ豪雨が遠のいていくのがわかった。じわじわと再び紫色の色彩が踊り場に戻ってきた。
放水路に落ちて行く濁流もみるみる弱まっていった。
『行こうか』
彼女は手を差し伸べ言った。
その手を掴み僕は立ち上がった。
店を出た時と立場が逆転している。
二匹目の飛来にビクビクしながら、彼女の後ろについて階段を上がった。
地上の庇の下に来て初めて状況がわかった。最早本降りではない雨がまだ降っている。東の空が淡く焼けていて街全体を不思議な紫色に染めていた。靖国通りにはまだ街灯が点いている。
人影は見当たらず、たまに車が通りかかるだけだ。この時間帯だと昼間の喧騒が嘘のようだった。
コンクリートの用水池は溢れていたわけではなく、溜まった雨水を側溝に流しているだけだった。
多分地下の貯水施設とも繋がっていて、あの魚は放水路が増水したおかげで、あの用水池に浮上して側溝から流し戻されたんだろう。
ナオミの理屈は間違いではなさそうだった。
異様な美しさを湛えている色彩のなかで、時間の流れから放擲されたかのように、しばらく僕たちは無言で佇んでいた。
『日の出かなぁ、雲が裂けそうだよ?』
ナオミは東の空を指差した。
ナオミが言う通りに雲に切れ間が出来て、スープのように濃い橙色が紫を溶かし始めた。雨は小降りだが、まだ止もうとしない。
そんな風に夜が殺されていく中で、ナオミは消え入りそうな水っぽい声で言った。
『あ、みて、雨をみて雨を。ほらあそこ。凄い』
ナオミが指差す方を見ても、すぐには気付かなかった。だけど霧状の雨が棚引いているのがわかる。
高層ビルのガラスに太陽が乱反射していた。
ナオミが凄いと言った意味がやっとわかった。彼女の位置が一番いい角度なのか、近づいて見ると、高層ビルの隙間に見える雨のベールだけが紫色に染まっていたんだ。
『パープルレイン・・・か』
そんな僕の呟きを受けてナオミも呟いた。
『・・プリンスってさ、嘘ついてたワケじゃなかったんだね』
パープルレインがまるでオーロラのようにたなびいている。
太陽が闇夜から世界を取り戻すのに時間はかからない。
その現象はほんのひと時だった。
太陽はガラスの向こう側で、再び雲の中に溶け込んでいく。
パープルレインも鉛色の中に溶け消えた。
後日マスターに訊くと、あの古代魚は「バタフライフィッシュ」と言うアフリカの淡水魚だった。
観賞魚として輸入されたものが捨てられ、共同溝の貯水施設の中で野生化し繁殖したらしい。元々、浮き袋が進化して肺のように空気呼吸も出来るらしい。
マスターの予想だと、その生命力は人類より強く、やがて人類が滅亡した後には発光体を得るまで地下で進化し続けるだろうとのこと。鰭(ひれ)は退化しない。巨大な放水路には、羽ばたくだけの広い空間があるからだ。
外界に出る経路を学習すれば、ホンモノの空を羽ばたき、大洋を渡りアフリカに帰ることも出来るかもしれないと。
マスターの途方も無い妄想力だが、納得した。
知らない間にマスターが『パープルレイン』をかけてくれた。
僕は紫色の雨が降りしきる暁の大空で、力強く羽ばたくバタフライフィッシュをイメージした。
そして、今現在の僕は『殺人魚フライングキラー』の監督が若きジェームス・キャメロンだったことを知り、改めて驚いたりもしている。
この話は1989年の梅雨時の新宿での思い出を基にしました。
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