虚構の身体の痛みの虚構〜「Processing and Tuning」についての雑感
この作品は「キャッチボール」から始まった。
開場中にジャグリングのボールを投げて受けるというワークショップが行われた。ジャグリングのボールは手に乗せるとずっしりと重く、そして生き物のように柔らかい。私も誰かからの視線を受け、ボールを受け、さらに誰かに視線を投げかけ、そしてボールを投げる。時に緩やかに、時に急激に、時に遊び心を持って。繰り返されるこの楽しい動作の中で、私は無意識に誰かの意思を受け取り、身体でその重みを感じとり、誰かに何かを伝えようとしていた。
作品は「他己紹介」へと進む。ジャグラー/演出家の目黒陽介、小説家/デザイナーの山本浩貴、ダンサー/振付家の仁田晶凱が自分以外の1名を紹介する。誰かを誰かに紹介するということを私たちは日々の営みの中で無意識に行っているが、紹介される立場になった場合、何か照れくさいような、脇の下に汗をかくような感覚になったことはないだろうか(私はよくある)?それは自分の個性を自分以外の誰かに定義され、普段は感じることのない自分のイメージが自分自身に返ってくるという、他動的な自己確認に対する違和感のせいではないかと思う。舞台上の三人は「他己紹介」される間、この違和感と向き合っているのではないか?その時の彼らの身体は、演技ではなく、素の状態でもなく、やや硬直したように見え、顔にはやり場のない笑みが浮かんでいた(と私には見えた)。
そしてシーンは仁田と目黒の「プロレス」に進む。お互いの身体の一部を掴み、放り出し、相手の身体の自由を奪い、そして自分も自由を奪われ、そしてまた奪う。見ている私たちには、それが痛々しい行為のように映る。なぜなら、冒頭のワークショップでボールを受け取った感触が、この手に残っているからだ。自分の身体にありもしない痛みが走る。呼吸が苦しくなる。このシーンは、「プロレス」として勝敗がついた。そして再び同じ動きが行われる。違うのは、山本のテキストが背景に映写され、仁田と目黒が語るということ。言葉と動きがリエゾンする。そして、同じ動きを見ているのに全く違う印象を持つことに気づいてゆく。自分が感じた「痛み」が消えてゆくのだ。その違和感の訳を考えるうちに勝敗がつき、そして驚きの言葉を聞く(見る)。「いいダンスでした」私が見たのは、1回目も2回目もダンスであり、振付され演出されたものであったのだ。私が感じた「痛み」とその喪失は、仁田の「演出」によって引き起こされたのだ。なんと遠回しで緻密な仕掛けだろうか。正直なところ、「やられた!」と思った。
私たちが日々の生活の中で何かを感じている。振り返ってみると、感じるというのは他動的な何かに対してのリアクションであることが多いと思う。情報の氾濫と自主規制が綱引きしているかのような現代社会に生きる私たちは、能動的に「感じる」ことに萎縮しがちになっているのではないだろうか?この作品から教えてもらったことは、能動的なアクションを躊躇しないということ。そしてアクションを起こした時に、自分以外の誰かが何を感じるのか?誰かの反応が自分に返ってきた時に、それを受けとめられるのか?そういった双方向のイメージを持つことが大切ということ。
人間は「キャッチボール」する生き物である。
2024.4.11 SCOOLにて観劇