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書評:アーノンクール『音楽は対話である』プラス猫町読書会

『音楽は対話である』ニコラウス・アーノンクール著 那須田務/本多優之共訳(アカデミア・ミュージック株式会社 1992)


古楽器オーケストラ「ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス」の創始者であり指揮者ニコラウス・アーノンクールのWikipedia見ると、とにかく凄い。神聖ローマ帝国の皇帝の末裔貴族だという、なんとも由緒正しきお方。ウィーン交響楽団のチェリストでありながら、さらに古楽オーケストラの立ち上げをしたというのも頷けるオリジンではないか。マエストロ・アーノンクール執筆の本書は、彼の講義や講演、論文を収めたものであり、第一部で音楽理論、第二部ではモンテヴェルディ、バッハ、モーツァルトの作品解説を主な内容としている。例によって、日本最大の読書会コミュニティである猫町倶楽部主催の【指揮者本からクラシック音楽を学ぶ読書会】の第5回目の内容と講師としていらした音楽ライター小室敬幸氏の解説も踏まえながらの書評です。第二部は作品ごとに専門的内容になっているので、読書会同様ここでは第一部のみ取り上げる。

中世、バロックの音楽事情
まず第一部で語られるのは、中世の音楽事情。現代と異なり、しっかりした楽器が揃うかどうかも分からないという時代背景もあり、曲の演奏には厳格な楽器指定もなく「歌いかつ手もとにある楽器で」という記述がよく見られたそうだ。そのため音楽作品は<どんな人数や編成であっても対応できるように作曲されて>いて、<演奏された時に初めて、個々の楽器が持つ固有の音型が、即興演奏によって呈示された>という。なんとも大らかな感じですねぇ。
アーノンクールはそんなディープなオタク的知識、いや、豊富な知識を披露した後、さらに写真付きで当時の楽器を嬉々として説明している。
その後時代はバロックへと移行し、<音楽史上の最も過激な変革が1600年頃に起こった>。各楽器がそれぞれ主体となって声部を作るポリフォニーから、「楽器の音が大きすぎて歌詞が聴こえないじゃないか!」というイタリア歌手らの抗議を受け、一声(メロディー)と伴奏する低音という「新しい音楽」への変化が起きたのだ。
この流れに巧みに対応した作曲家として、アーノンクールが挙げたのがモンテヴェルディだ。<モンテヴェルディにとって最も大切だったのは、音楽の真実性、テキストや言葉の完璧な解釈であって、単なる美しい響きではなかった>。ということで形式へのこだわりは重要ではなかったのかなあ。当時の楽器や声楽法からも雑音の取り除きは無理だったので、そもそも<美しい響きは、ドラマの、そして音楽の真実性にくらべて低い位置にあった>という事情もある。モンテヴェルディは不協和音も採用していて、それはつまり多様な音の可能性を否定しなかったということで「新しい音楽」への対応もすんなりいったのかもしれない。

さて楽譜の話。
最初<音楽は記譜されることなく、作曲家が自ら演奏していた>。つまり即興演奏がデフォだったわけだが、次第に作曲家が音を楽譜として記録する=記譜によって曲への自分の権限を増大して行く。しかし基本は作曲家=演奏家だったので、古典主義以前にはやっぱりその場での演奏が重要であり、わざわざ表情記号を書き込む必要はなかったのだろう。
時代が進むに従い、次第に作曲家と演奏家は分離して行く。そうなると楽譜を手にした演奏家の解釈はどうなるか。アーノンクールの指摘では、
<楽譜に「欠けている」記号(デュナーミク、表情、店舗、楽器編成等)を補って演奏しようとするもの>あるいは<「作品に忠実」に「客観的」に楽譜に書かれていることだけを演奏しようとするものである>のどちらかになってきたそうだ。あーこれは現代の音楽家も仰ってるような。指揮者や演奏家から「楽譜重視」「作曲家ファースト」の言葉を聞く機会は多いですよね。あるいは「自分なりの表現をしたい」とか。
するとアーノンクールは眉を上げ<私たちは大変長い間すべての西洋音楽を、ほぼブラームスの時代の習慣にしたがって演奏してきたのである>と、この慣習がほぼロマン主義時代から綿々と続いてきたものであると言うのですね。その結果<今日、演奏家は、作曲については全く知識を持たないのが普通で、作曲家から受け取った楽譜に盲従しているありさまなのだ>と手厳しい(笑)。だから作曲家=演奏者の時代は<音楽家の誰もが、成熟した作曲家であり、同時に理論家でもあった。(中略)最も広い意味での音楽家だった>とうっとり語り、ウィーン交響楽団のチェリスト時代に「なんでみんな楽譜通り演奏しないんだ」とイラついてたんですね(笑)。

マタイ受難曲
マタイ受難曲はバッハ自身の指揮で3回ほど上演された後は、およそ100年もの間上演の機会が得られず、文字通り忘れ去られた存在となっていた。その後この曲の素晴らしさを知ったメンデルスゾーンが研究し、1829年にベルリンで再演したことによってこの曲およびバッハが再評価されることになった、という感動的ストーリーは有名なところ。だがアーノンクールはそれは<バッハ自身が抱いていた解釈の復元であったと考えるべきではない>とやや辛口評価なのだ。理由は<ロマン主義の時代の音楽生活は、あまりにもその時代に密着していたからであり、その上メンデルスゾーン自身が非常にな創作力に溢れた音楽家だったからだ>。つまり客受けするように改変されたものだったからというわけですね。いやあ私、メンデルスゾーンがマタイ受難曲を復活させたという話大好きだったので、これは結構ショックだった。さらに小室氏が「バッハの素晴らしさを広めるためとはいえ、作品の編曲をシューマンも行っていた」と仰ったのを聞き、もう大ショック。私は原田光子『真実なる女性ークララ・シューマン』で、バッハを必死で蘇らせたシューマン夫妻を読んでいたのでねえ。でもそう言われてみると、シューマン夫妻は確か正しきロマン主義音楽の道筋の先頭にいる存在としてバッハを置いていたような気がするのだよね。そう考えると、え、もしかしてバッハをロマン派に寄せちゃった? という疑念が湧いてくる。うわー価値が反転するような衝撃だ。
メンデルスゾーン版は復活のきっかけになり長年聴衆を魅了してきたわけだが、<今日ではもうそれを安易に続けるわけにはいかない>とアーノンクールは言う。<音楽が初めて演奏されたところへもう一度立ち戻ろうという要求が、聴衆にも音楽家にも高まってきているからだ>。
小室氏の話によると、現在はバッハが書いたオリジナルが演奏されることが多く、「メンデルスゾーン版」はそのように記載され演奏されるそうだ。やはり流れ的に講座でもバッハ・コレギウム・ジャパンの話が頻繁に出ていたのだが、私自身も今年聴いた受難曲を思い出し、そういえばアーノンクールが指摘した「バッハは受難曲の二人のアルトパートで男声を用いていた」という部分に「はいはい!たしかにカウンターテナーだった」と膝を打ち1人興奮していたのだった。

アーノンクールのバロック、古典音楽
アーノンクールは何十年もかけて積み重ねられ出来上がった伝統的解釈を重視しつつも、時代に合わせて脚色されていった変化には厳しい目を向ける。例えば「時代遅れ」のバッハをモダンなロマン主義の様式に従って再演したメンデルスゾーンの例とかですね(※おっと! メンデルスゾーンのディスりはそこまでだ!)。
<原典として作品そのものを受入れ、それを自らの責任に置いて表現したい>とアーノンクールは言う。ブラームス以来支配されてきた<ロマン主義的な演奏伝統を排除するような演奏解釈を試みる必要があるだろう>。
ここでアーノンクールの解釈の肝がくるわけですね。バロック、古典の楽譜の見直し、ロマン主義を廃した解釈の重視。
さらに「原典そのものを受入れ」という言葉には、その原点が伝えようとした声や感情も含まれる、というのが小室氏の説明だ。でベートーベン第5番交響曲ラストを聴く。普通に聴いたらジャン、ジャンのトゥッティだが、アーノンクールのはジャンの合間が通常より長い、つまりあまりにも執拗(笑)。がそれも本来は「いつまで続くのかよ」「しつこい」と思わせる狙いがあったからだそうで、それを生かしたアーノンクールの演奏は本当にしつこいから是非聴いていただきたい。

正直言って今回の本は基礎的音楽知識がないとちょっと苦しい内容かもしれない。しかしアーノンクールの語る理論は大変興味深いし、第二部の曲解説などは実際に聴く機会があれば勉強になるかもしれない。まあそれでも、結構読むに辛い教材だったとは言っとく(笑)。


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