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全然素人目線のマタイ受難曲! BCJ・後半【クラシック・コンサート感想②】


20分の休憩時間。今回はやることが満載だ。コロナ対策の一環としてビュッフェ営業は休業中なので、持ち込んだカステラと紅茶で休憩。後半1時間半の間中にお腹が鳴って演奏を妨げてはいけないからね。食べながらプログラムでひたすら後半ストーリーのお勉強。「ペテロの否認」があって「審判の開始」「イエスの鞭打ちと辱め」「十字架の道」「イエスの死」から「復活」までか〜ふむふむ。はいそこで、リンゴーンと予鈴。えええ! まだ全然読めてないのにー。後は字幕だけを頼りに後半突入。

前半と同じように、演奏者と歌手の皆さんが拍手とともに入場。ここでようやく演奏者の配列が通常のオーケストラとは違うことを確認する。一般的なオケだと、ヴァイオリンは第1と第2の2グループあるが、あとはヴィオラ、チェロという楽器で1グループになり、さらに弦・木管・金管・打楽器というジャンル別に固められている。しかし今回のBCJは、マエストロが座るチェンバロを中心に上手側にオーケストラ①+合唱①、下手側にオケ②+合唱②という二つの演奏グループに分かれて配置している。つまり両方に弦パートがいるし木管パートがいる。楽器は全て等しいわけではないが、歌グループはほぼ同じで大体12人くらいの合唱団が左右に一組ずつ、その中にソプラノやアルト、テノール、バスも左右に一人ずつという感じだ。演奏も基本は別扱いなのかもしれない。全体での演奏もあるが、左右どちらかだけという場合も。意図は……もちろん分からないけどね。

さて場面は久保氏のカウンターテナーと合唱②の皆さんのコラールから始まり、そのまま「審問」の場面へと入って行く。
色々と讒言を述べる証人が現れるもイエスは黙したままなので、大祭司がみんなに意見を聞く。すると①②合わせたコラール全員が「Er ist des Todes schuldig! この男は死罪だ!」あるいは「Weissage uns, Christe,wer ist's,der dich shlug? 当ててみよ、キリスト、お前を殴ったのは誰だ?」とか割と美しく歌うわけですよ。みんな悪い民的役割なのねと思ったら、その直後第37曲で「罪知らぬ救い主を打ち据えるのは誰か?」「Du bist ja nicht ein Sünder 御身は断じて罪人にはあらじ」という感動的なコラールが続く。一瞬「いや、おまいう?」状態になってちょっと笑っちゃったのは仕方ないでしょ、私初心者だし。
ペテロの否認からの第39曲ヴァイオリンソロと久保氏のアリアが悲痛でねえ。そして「ユダの末路」。悔いるならするなっていうか、ユダは結局見返りの金貨30枚を投げ捨てて自ら命を絶ってしまう。でその残された金貨を神殿に入れるわけには行かないじゃん、じゃあ畑買っとくわという、ちょっとほお〜な興味深い後日談。わざわざ聖書に記すわけだから金貨の行方は大問題だったんだろうなあ。
前半に書いたが、5回現れる受難のコラールの3回目第44曲が天から降るように会場に響く。あー感動。
ところがまた第45曲でまた合唱の皆さん掌返しですよ。イエスと罪人バラバとどちらかを釈放するよ、どちらを選ぶ? って聞かれて「バ〜ラバ〜!」って叫んじゃう。
第48曲で森さんが美しいソプラノでイエスの潔白を語ったのちの第49曲。「Aus Liebe 愛ゆえに」死なんとするイエスには、もう涙涙ですよ。なのにコラールったらまた「Laß ihn kreuzigen! 十字架につけろ!」って言っちゃう。鬼ですね。しかしそんな後、後悔するかのように歌われる「Sein Blut komme über uns und unsre Kinder! 彼の流す地は我らとその子孫の上に降りかかれ!」っていうのはそういう意味もあって、非常に重々しいコラールだ(どんな意味だ)。
4回目の受難のコラール第54曲は、いばらの冠を被せられ叩かれるなどイエスが受けた蛮行がゆっくり噛みしめるように伝えられ、それを静かに非難していく。
第57曲マエストロのチェンバロとチェロに乗せ、加耒氏のバスが「Komm ,süßes Kreuz 来たれ、甘き十字架よ」と十字架への道のりを歌う。一見穏やかで淡々としたメロディにも聴こえるが、チェロの重い音色が暗く辛い歩みを思わせる。
イエスが息を引き取った後、第62曲5回目の受難のコラールは、深い哀しみの底に靄が漂っているような、重く沈痛な祈りに満ちている……と悲嘆に思っていたら、エヴァンゲリストが唐突に大声で奇跡を語り出すからびっくり! 地震が起き神殿の幕が真っ二つに裂け、眠っていた聖徒が墓から出てきたのだ。それを受けた第63曲で「Wahrlich, dieser ist Gottes Sohn gewesen.この方は本当に神の子であったのだ」と、哀しみの底にいたコラールが希望の灯りを見つけたように歌う。
第65曲加耒氏(バス)のアリアがなんと美しく、希望と愛に満ちていることか。からのはい、掌返し。第66曲は悪い民達のコラールだあ。しかし素人ながらに思うが、この悪い民モードの時のコラールは、勢いがあって生き生きした曲調が多い気する。
ラストは「Ruhe sanfte, sanfte ruht!  憩いたまえ、安らかに!」と主の御身に呼びかけるコラールで終了。え、終了? のようだ。マエストロが腕を下ろし客席に振り返ったので。いや、分からんのかって、はい分かりませんでした。ああ、長く深い物語の世界から目覚めたような気分。

盛大な拍手が惜しみなく出演者に贈られる。いや〜皆さん、お疲れ様でした。そして観客の我らもお疲れ様でした。休憩20分入れての3時間。お見受けするところ、客席はどうやらお年を召した方が多そうなので、さぞや大変だったのではと思われる。しかしマスク効果かなんか知らんが、この3時間に咳やくしゃみ、飴ガサガサや寝息や寝言がほとんど聞かれなかったのは凄くないか? これもBCJの皆さんの素晴らしい演奏と「バッハすげーな、こんな長い曲作って」という感嘆と、先ほども書いたが出たり入ったり珍しい楽器登場したり、コンティヌオ・オルガン様のお力だったり、森さん綺麗やなあだったり、情報過多で意外にも退屈する間が無かったからかもしれない。

マタイ受難曲を作曲した大バッハは、年齢とともに時代遅れと揶揄されるようになり、晩年はあの人は今? 状態だったらしい。そのままバッハの作品は世の音楽界から忘れ去られていくが、バッハの音楽の素晴らしさ、偉大さに目を留めたシューマン夫妻ら一部の音楽家達によって徐々に演奏機会も増えた。1829年3月11日メンデルスゾーンがベルリンでマタイ受難曲を復活上演し、そこから現代に至るバッハ再評価の道筋が繋がったという。
そんな歴史的経緯や宗教的意味を知ると、初心者の私ですらこの曲の重要さがよく分かる。キリスト教徒ではないので宗教心は大いに足りていないと思うが、受難の物語はドラマ性に富んでいるし、バッハの音楽は美しく感動的で胸を打つ。大切に繋がれてきた作品を、こうしてBCJがコンサートホールで演奏してくれた機会に出会えたことも本当にありがたい。感謝している。
同時に自分の無知さも嫌という程自覚しているのが現時点である。実はこの原稿を書くに当たり改めてYouTubeで再視聴してみたんだが、いやあ予習の時はあんなに苦痛だったのに今回はすっかり楽しんで聴けたのが不思議。これはやっぱり実演を聴いたという経験と、明らかに2,000円プログラムのお陰ですよ。
また次回がいつになるか分からないが、このマタイ受難曲が上演される時は足を運び、回数重ねるごとに理解を深めていきたいと思っている。このプログラムは言わば聖書ですな。コンサートには必携、普段は大切に本棚に保管しとこっと。




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