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『男と女、モントーク岬で』

フォルカー・シュレンドルフの『男と女、モントーク岬で』(Return to Montauk/2017年/ドイツ・フランス・アイルランド合作/106分)

映画の集中で主人公の小説家マックスはDJと記者とに二度同じ解答をする

DJ:以前のあなたは体制に批判的で反体制的でしたが 最近の言動は肯定的に感じられます

マックス:私は「木」ではない

DJ:どういう意味でしょうか?

マックス:私は動物のように柔軟に移動する

と まるでアリストテレスの『政治学』の一節の如く応えるマックス

小説家のマックスは 近代的な社会の中では 敗北の傷を抱えた人間といえるだろう
一方 かつての恋人レベッカは 東ベルリンからイェール大学を卒業してマンハッタンに弁護士事務所を構える高学歴で 既に社会的な地位によって権威づけを得た人間として描かれている
登場する場面を見れば近代化一般の勝利を象徴する女性像としてレベッカが定着されているのがわかる
弁護士という 権力の愛 権力への愛の問いも既に書き込まれている脚本が先ず鋭い
マックスの敗北が 自己責任の論理にしたがって徐々に思弁され それを小説の題材にもしてきたが レベッカは すでに一定の競争関係のなかで個人としての地位を得ている「アメリカン」だと言える
西欧は ピノキオやハムレットやドン・キホーテのように 権力を自虐的に嘲笑う文学的な伝統があるというマックス
マックス・フリッシュの短編を原案として練られたこの映画的な脚色は S.W.S同様 一市民でもあるマックスの敗北が 同時にレベッカという「帝国の喪失」にも見えてくる枠物語にある
帝国を喪った動物性 つまり 76年のヴェトナムからの撤退以降の産物としてS.W.Sは誕生し それを掠めて育ったマックス(なぜなら彼がボブ・ディランの『武道館』を熱心に聴いていた痕跡が示される)は 過去を自己憐憫の肥やしにして物語を紡いできたのだから

マックスが集合的な敗北と個人の敗北を接合するとき 恋愛と小説のアレゴリカルな対応を尽くすが この映画は映画的なコードに従って その男の空想を いとも無関心(簡単)にレベッカが暴く
多くの動物的な書き手(男性!)たちが 空想を介して つまり夢の物理を通じて 夢に準拠した共感の物語をかたちづくり 個人と集団との融合合一を語りたがるのに比して レベッカは 『ヒロシマ・モナムール』のエマニュエル・リヴァの如く それを拒否 または極に位置する
この瞬間のレベッカは マックスのような「追体験」をも拒否する
そして彼女はマックス以上にある意味敗残者でありながら 日常を生きる女として 性を求め 家庭(あるロック・バンドに模した名前の猫三匹)も大事にしている

レベッカを演じるニーナ・ホスが完璧で 主役のステラン・スカルスガルドに一歩もひけをとらない
マックスをめぐる女性たちの点描もどこまでも映画的で 全ての場面に理解を促すような演出や編集が施されている
とりわけモントーク岬の砂浜でマーラーを流しながら轍に車輪が填まるあたりからの流れ(演出)には現場でのコード進行すべて写っている
ここには『ファントム・スレッド』にあった不均衡なものの魅惑が微塵もない

幽霊はいる 幽霊はいない とブルーインクでノートに書くマックスに対して 今の恋人クララに「モントーク岬で幽霊と会っていた」と弁解し クララは「幽霊とヤッたの?」と囁き 「幽霊とはヤレないわ」とマックスを抱き取る眼差しまでいい
これこそ幽霊たちによって歌われる歌であり その歌はあくまで生命の謳歌であって死のそれでは決してない
マックスは「傷つけたくない男」なのだから
レベッカもクララも そこが好きなのだから

高齢のシュレンドルフが 自画像を描いたとしか思えず 17年前の2人の思い出の岬で 不倫愛(いまの彼女クララとも別れると言ってレベッカに復縁を迫るあたり)と 過去の未練が粉々になる瞬間のスカルスガルドの顔
夢想が砕け散る瞬間の男の健気な弱さを撮り得ただけでも本作は報われているのに 「東ベルリンから来た女」ことニーナ・ホスに返すショットの尽くが 既に死んでしまった愛を証明して悼むしかない

シュレンドルフが佳作『ボイジャー』を超えて 遂に 自分自身の夢と融け合った作家像に迫ったとしか思えない
そこかしこを彷徨するマックスの足音の木霊を背後に残しながら 映画は次第に消えていく

マックスに学費を与えていたという謎の富豪ウォルターは クレーもカンディンスキーも所有している
それらの絵を 私のものだから太陽光で消えればいいとすらいう
それに対してクララは 芸術は私たちのものだから消えてはいけないと反論すると富豪に きみはウォール街を占拠すればいい と言われて この平行線は終わるが この映画もまた平行線を揺れながら 実は消えて行けばいいとも言っているのではないかと感じてしまうあたりが あまりに自虐的なのだ

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