ハロウィーンの奇蹟、あるいは渋谷タンホイザー

 はじめに断っておくが以下の話はミュンヒハウゼン男爵が語るような法螺話である。なにより都合がよすぎるしこんなことが実際に起きるはずがない。いうなればワグナーのオペラ『タンホイザー』において騎士タンホイザーがウェヌスの国を訪ねたというようなたぐいの物語である。

  それは十三日の金曜日であった。二〇一七年十月は第二週、金曜日の東京はくもりであった。それに小雨も降っていた。憂鬱な様子の秋のそらである。渋谷のすぐとなりの街(というより道だと筆者は思っているが)池尻にある自宅で筆者はグラインダーを眺めていた。ある男に目がとまってメッセージを送った。ジェームズという名前だった。姓は高名な映画監督とおなじコッポラという。ラテン的な魅力でセクシーだった。それにタトゥーアーティストらしい(ということは後でインスタグラムを見てわかった)。返事が返ってきてやりとりを始めた。ニューヨークからきたそうだ。いきなり「『ヘドウィッグ・アングリー・インチ』というミュージカルを知っているか?」と訊かれた。筆者は『ヘドウィッグ・アングリー・インチ』公開の年、飯田橋ギンレイホールで上映された際観たことがあった。ジョン・キャメロン・ミッチェルの映画も『ショートバス』はいまはなき渋谷シネマライズ観ていたし、『ラビット・ホール』だって観ている。知っているし観たこともあると答えると、驚くべき提案をされたのだ。そのセクシーなタトゥーアーティストはジョン・キャメロン・ミッチェルと一緒におり、翌日のショウ(つまり『ヘドウィッグ・アングリー・インチ』の公演である)にこないかと筆者を招待したのだ。「はっ!?」とその時の驚愕を思い出す。翌日も暇だったこともあってそれを断るわけはない。われわれ二人はグラインダーからインスタグラムに場所を変えてやりとりを続けることになった。翌日の夜、渋谷の劇場は受付にチケットを用意してくれるとのこと。しかも、終演後にジョン・キャメロン・ミッチェルその人に会わせてくれるというのだ。調べるとたしかにその公演は渋谷ヒカリエの劇場にておこなわれることになっており中村中が共演するらしい。にわかには信じがたい幸運に自分があったと気づき始めた。

 しかしながら半信半疑である。そもそもこのセクシー君はなんなのだ。ジョン・キャメロン・ミッチェルの付き人なのか。恋人なのか。それとも両方なのか。恋人だとすればグラインダーをやっているのはどうなんだ。いや『ショートバス』の監督がそんなことは気にしないか。それにしてもどうして筆者を招待するのだ。コミュニティへの貢献といったつもりなのか。グラインダーで知り合った人間を招待するのが? そうしたこと自問自答してその日は過ぎていった。

 翌日のまだ昼にならぬ十一時頃。インスタグラムをみるとジェームズ・コッポラがインスタライヴをひらいており、劇場のステージでのリハーサルの模様が中継されていた。筆者をふくめて二人しか見ていない。きっともう一人はジェームズの友達だろう。ジェームズはこのインスタライブを内緒でながしているにちがいない。インスタグラムのこのアカウントとこのミュージカルを結び付けて認識している人間は筆者以外にほとんどいないということだ。そのインスタライヴをみては一種ジェームズへ共犯めいた気持ちとなり、それでありながら世間のファンの人びとへ後ろめたいような優越するような気分をおぼえた。

 夜になった。渋谷はヒカリエにある劇場シアター・オーブへむかった。そのときになってもまだ半信半疑のまま受付に名前を言うとチケットが用意してあった。チケットがこの手にある。筆者は前日のグラインダーでのやりとりからここまで来た道のりの不思議を実感しきれなかった。シアター・オーブのフォワイエにはあふれんばかりの楽し気なひとびとがあり、コスプレをしている一団もあった。コスプレをしている人の写真を撮らせてもらった。撮らせてもらいながら、筆者は自分よりはるかにこのミュージカルを愛しているであろうこの人たちよりもはるかにジョン・キャメロン・ミッチェルに近づいているという事実になんだか茫然とした。

 席はこれまた前日に用意してとは思えぬほどいい席だった。前のブロック後ろの真ん中である。左隣に座っているカップルがNetflixの『ナルコス』シーズン2について話していた。ミュージカルがはじまった。出演者JMCと中村中の二人だけだ。『ヘドウィッグ・アンド・アングリーインチ』の世界にひたった。そしてミュージカルが終わった。

 終演後、フォワイエで買ったパンフレットを持ってジェームズ・コッポラに会った。やはりセクシーだ。その案内のもと、舞台裏へとはいった。ジェームズから楽屋へ入る前にその途中で待っているように指示があった。ちょっと待つ。目の前には中村中がいて友人らしき一団と話している。しばらくしてジェームズがJMCの楽屋へと案内してくれた。JMCがいた。こちらも緊張していため、さぞやぎこちない笑顔となっていたであろう。挨拶した。JMCがハグをしてくれた。パンフレットにサインをしてくれて一緒に写真も撮った。

 そして、帰った。舞台裏から一階まで関係者用のエレベーターには劇場か制作会社の社員とおぼしき男の人が一緒に乗って送ってくれた。その人から
「ジョンさんのお友だちなんですか?」と多分に社交辞令的な質問を受けて筆者も「そうですねえ」と返した。その人に送られながら筆者がそこにきたいきさつが知られると問題となるのではないかとかんがえていた。

 いや。問題になどなるわけはない。だってこんなことが起きるはずはないからだ。これが本当ならば杖に枝葉が咲くであろう。


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