(二十九)杜甫の詩を裏読みしよう

対句表現が発達した唐代の詩を選んで、日本の詩歌にも影響を与えた対句を鑑賞しよう。ここでは、意味の解説のみにとどめ、平仄韻律の観点からの解説はしない。
対句の名手である大詩人杜甫の律詩から次の作品を選んだ。
江亭
坦腹江亭暖、長吟野望時
水流心不競、雲在意倶遲
寂寂春將晩、欣欣物自私
故林歸未得、排悶強裁詩
川辺の亭(あずまや)にて
坦腹すれば江亭暖かに、長吟して野望の時
水流れて心競はず、雲在りて、意倶に遲し
寂寂として春將に晩れんとし、欣欣として物自ら私す
故林歸ること未だ得ず、悶(もだえ)を排(はら)わんと強いて詩を作らん
(「時」の字は韻を踏むために加えた字で意味はない)
この詩は成都にいた頃の詩であるらしい。時に50歳の春の時であった。杜甫の故郷は洛陽であり、成都から見ると東に位置している。馮至によると、この頃の成都は揚一益二(長安洛陽に次いで、繁栄しているのは揚州か益州(成都)という意味)と言われるほど繁栄していた。その西を浣花溪が流れていた。詩はその川辺での情景を描いたものである。
詩の意味は大体次の通り。
川辺のあずま屋で腹ばいになると春の温かさを感じる。
眼前に広がる野原を眺めながら詩を吟ずる。
川の水が流れていくが、私の心はそれに競うこともない。
雲は空に在るが、私の気持ちもゆったりしている。

春の日が静かに暮れようしている、
万物は嬉しげで、あるがままだ。
私は、故郷に帰ることが出来ずにいる、
その苦しみを忘れるために強いて詩でも作ろう。

ここでは、「水流心不競;雲在意倶遲」の対句を特に解説する。その理由は、上の翻訳の意味の他に、別の意味も隠されているからである。従来の解説書にはこのような解説はない。

「川の水は故郷のある東に向かって流れているが、私の気持ちはそれに動かされない」と杜甫は言うが、実際は故郷(洛陽)のある東の方へ川の水の様に着実に流れて行きたいのだ。同様に、「空をゆっくり行く雲の様に、私の気持ちもゆったりしている」と杜甫は言うが、実際は雲の様に誰にも邪魔されずに故郷まで飛んで行きたいのだ。
実際「故郷に帰ることが出来ずにいる」というのは故郷へ早く帰りたいとう気持ちの表れである。しかし、それを出さないのが彼の流儀である。望郷の念を表わした杜甫の句を次に並べてみる。
烽火連三月、家書抵万金(春望)
今春看又過、何日是帰年(絶句)
老妻書數紙、應悉未帰情(客夜)
親朋無一字、老病有孤舟(登岳陽樓)

これ等の句から察せられるように、杜甫は「家からの便りは万金に値する」、「今年の春も又帰れずにいる、何時(故郷に)帰れるだろうか」、「妻がしばしば手紙をくれる、彼女は私が帰れない事情を知っている事が分かる」「親族や友人からの手紙がなく、病気になったのに舟しかない」などと、故郷に帰りたいことを匂わすのであるが、故郷に帰りたいという直截的な芸のない言い方はしないのである。

行雲流水は気ままに生きたいという杜甫の気持ちを代表している。しかし、それは叶わない願望である。
故郷に帰りたいとストレートに言わずに、「水流心不競;雲在意倶遲」と巧みに本心を隠しつつ、同時に本心を正確に露吐しているのである。この対句は極めて巧妙ではないか。



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