(二十九)「見渡せば」を句頭にして読む

先ずは次の歌の紹介から始めよう
素性法師(古今和歌集)
見渡せば 柳桜を こきまぜて 
都ぞ春の 錦なりける

花の春、都の風景を詠んだ歌である。時刻は日中である。次は、季節は同じ春であるが、日中ではなく夕べを詠んだ歌である。
後鳥羽院(新古今和歌集)
見渡せば 山もとかすむ 水無瀬川 
夕べは秋と なに思ひけむ
(見渡すと山の麓は霞んで、水無瀬川が流れている。どうして今まで「夕べの趣は秋に限る」と思ったのだろう。春の夕べの趣もすばらしいではないか。)
この翻訳は『法苑176号』より引用、ここには水無瀬川の場所や、春の夕暮れについての解説がなされているので、興味がある方は記事をアクセスしてみて下さい。
蛇足ではあるが、「夕べの趣は秋に限る」とは、枕草子の「秋は夕暮れ」の句を念頭に置いているものと思われる。)
《参考資料》
夕べは秋と・・・(法苑176号) | 記事 | 新日本法規WEBサイト (sn-hoki.co.jp)
https://www.sn-hoki.co.jp/articles/article640316/

今度は、秋の景色である。
藤原定家(新古今和歌集)
見渡せば 花も紅葉も なかりけり 
浦の苫屋の 秋の夕暮」
(この句の要点は花も紅葉もないのに、秋の夕暮れは心打つ風景としている点である)

さて、この歌を本歌とする狂歌がある。
貧家三夕の歌の中に(紀野暮輔(きのやぼすけ))
見渡せば 金もおあしも なかりけり 
米櫃までも あきの夕暮

がそれである。「見渡せば」「なかりけり」「あきの夕暮」を活かした本歌取りとなっている。この狂歌は定家の歌とは全く異なった風景を描いている。お金のない時の夕暮れは「寂しい」と言っているのだ。

ここまでが、幾何学を解く際に引く補助線である。ここで、当方の狂歌を示す。
本歌取り
見渡せば 山も霞も 有りにけり 
瀬音も有るぞ 何がなからん
本歌取り
下見れば 梅も桜も 有りにけり 
手元に梅の 酒桜餅


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