(十八)花の俳人加賀の千代女の句を楽しむ

前回、千代女の「朝顔に釣瓶取られてもらい水」について、評論したが、今回は「花の俳人」とも呼ばれた彼女の俳句を鑑賞しよう。
千代女は元禄十六年(1703年)加賀の国松任(現在石川県白山市八日市町)の表具師福増屋六兵衛の娘として生まれ、北潟屋主人の岸弥左衛門(俳号・半睡、後に大睡)の弟子となる。更に、各務支考の指導も受け、俳句の才能を伸ばしていった。江戸を代表する俳人を並べてみよう。
松尾芭蕉(1644年~1694年、伊賀)
服部嵐雪(1654年~1707年、江戸)
宝井其角(1661年~1707年、江戸)
野沢凡兆(?~1714年、加賀)
千代女 (1703年~1775年、加賀)
与謝蕪村(1716年~1784年、摂津)
小林一茶(1763年~1828年、信濃)

ここに挙げた俳人は皆、作風が相異なる。千代女は当然、芭蕉の作品は研究していたであろうが、嵐雪・其角の作も、その一部は加賀まで届いたであろう。千代女は女性的な句が多く、独特の雰囲気がある。

親しくしていた中川乙由と別れる際に作った句が
蝶ほどの 笠になるまで したひけり

である。男子にはなかなか書けない句である。女の素直な気持ちがよく表現されている。これに対して、乙由は千代女の
山吹や 柳の水の よとむ頃

を絶賛している。春の山裾の風景を描いたのではないかと想像する。山吹の黄、柳の緑が対比され、川べりの柳が風に揺れている様子と水が淀む様子とが春の雰囲気を出している。
私が気に入った次の千代女の句を鑑賞する。☆印は筆者が選んだ彼女の代表作。
《春》
梅さくや 何がふっても 春は春
☆百なりや つる一筋の 心より
☆閑かさは 何の心や 春の空
よきことの 目にもあまるや 花の春
春風や いろいろの香を そそのかし
「梅さくや」では「雪が降っても春は春」と言いたいのであるが、雪と言わず、霰と言わず、雨と言わず、何が降ってもと言っている所が工夫した所である。
「百なりや」は千代女の仏心を表現した作品。百成瓢箪(ひゃくなりびょうたん)が百成(ももなり)になるまでに、多くのドラマがあった事を読み手に示唆する句となっている。
「閑かさ」は「しずかさ」「のどかさ」どちらに読めば良いのであろう。これを知るためには次の短歌が補助線になる。
久方の光のどけき春の日に
しづ心なく花の散るらむ 紀友則・古今和歌集
(大意:こんなにも長閑な春なのに、どうして桜の花は、落ち着いていられず、慌ただしく散ってしまうのでしょう)
一つの歌の中に「のどか」と「しづ心」の双方の言葉が入っている。千代女の心には、この歌があって作ったと考えれば、「閑かさ」は「しづかさ」と読むのであろう。紀友則の歌では、「しづ心」がないのは桜の花であるが、千代女の歌では「何の心」と問いかけている。この問い掛けに対する解釈は二通りある。一つは、「何の花の心」であり、もう一つは「誰の心」である。千代女は女性の観点から歌うことが多いので、後者の解釈においても、「誰」を女性に限定出来るかもしれない。
前者の解釈に立ってみよう。春は心が急く季節である。あっちに花が咲き、こっちにも花が咲く。どの花もその時になれば、自然と花が咲き、そして自然に散るのであり、何も慌ただしく咲いて慌ただしく散っていくわけではない。この様に考えると、句意は次のようになる。
「紀友則は『桜の花はしづ心無く』と言っているけれど、そうかしら?どの花も皆しづ心で咲いて散るのではないかしら?それとも、変化の多い(しづ心無き)春の空のせいかしら?」

後者の解釈に立ってみよう。花を見るのに、雨が降るのを心配する人もいれば、逆に一雨降って欲しいなどと思う風流な者もいる。同様に、雷を心配する者もいれば、逆に雷を喜ぶものもいる。気候の変わり易いこの時期の人の心も変わり易い。花みる人の「しづ心」などは何処にあるかしらなる。そこで、その句意は次のようになる。
  桜の花が咲く時分は気候が変わり易い季節ね。人の心も変わり易く、空模様がそうである様に、しづ心などは望めないわ。

簡単そうに見えるこの句が、以外に深みのある句ということが理解されたと思う。
 「よきことの」と「春風や」の句は同工異曲。春が深まるにつれて、春化粧が濃くなっていく姿を心嬉しく見ている。

《夏》
☆夕顔や ものの隠れて 美しさ
葉桜の 昔忘れて すずみけり
「夕顔や」の句は、夏の夜に夕顔が咲いているが、暗くて、周囲がよく見えないが、却って夕顔の美しい白が際立っている。

「葉桜の」句の「昔」とは、花が咲いていた時分を指す。その頃はまだ花冷えだったかもしれない。しかし、今は緑の葉桜を眺めながら、涼んでいる。

《秋》
☆月の夜は 石に出て啼く きりぎりす
稲妻の 裾を濡らすや 水の上
この二つの句は花を題材にしていないが、特に目にとまったので、紹介する。
「月の夜」の句は、月が大きな石の上のキリギリスを照らし、秋の雰囲気を醸し出している。絵画的な句であり、この句を詠むと、「岩鼻やここにも一月の客」を思い出す。
「稲妻の」句は、稲妻の音に驚いた少女が水たまりで裾を濡らしてしまったという可愛らしい句である。この句は、千代女が17歳の時に「稲妻」の題を与えられて作ったもので、彼女の可愛らしさが出ている。

《冬》
☆春の夜の 夢見て咲くや 返り花
(返り花とは季節外れの花を言う。)
季節外れの花を歌った句であるが、春を夢見て咲くとは、冬なのに春を待ちきれなくて咲いた花という感じが出ていて、女性らしい句である。


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