(十三)蓼太の「活け下手の椿に彼方向かれけり」を読む

江戸中期の俳人大島蓼太は
  世の中は三日見ぬ間に桜かな

の作者として有名である。蓼太はこの他にも、比較的知られている句を作っている。
  活け下手の椿に彼方向かれけり

「活け下手」は「彼方向かれけり」を引き出す原因である。「活け下手」が言い訳がましくて当方は気に入らないのである。
確かに、花を活けた時にそっぽを向く時があるものだが、その時は、正面を向くようにすれば良いのだ。してみると、「活け下手」というのは言葉の綾に過ぎず、本当はそっぽを向くように活けてみたのかもしれないのである。自ら「活け下手」ですなどと言うと、わざとらしく聞こえる。
蓼太の句で有名な句を更に挙げる。
  むっとして戻れば庭に柳かな

がそれである。これも「むっとして」が残念な表現である。しかし、もっと良い表現を探しても、見つかる様にも思えない。参考として、正岡子規の評論を次に掲載しておく。
 「むっとして帰れば門に青柳の」と端唄にも謡われたれば世の人   は善く知りたらん。句意は余所で腹の立つことありてむっとしながら内に帰れば、庭に柳の大人しく垂れたるを見て、この柳の如く風にも逆らわず、ただ柔和にしてこそ世の中も渡るべけれと悟りたるなり。箇様な理想を含む故に端唄にもはひりたれど、俗気十分にして月並調の本色を現わせり。千代の朝顔の句よりもなお厭な心地す。
  (『俳諧大要』、岩波文庫、39頁)

余計なようであるが、上述の端唄の文句を掲載しておく。
  むつとして、帰れば門の青柳に、くもりし胸も春の雨、
  又も晴れ行く ネエ月の影、ならば朧にしてほしや、サノサ。

椿を歌った歌を三首紹介しよう。
  古寺に 茶筌花さく 椿かな    蕪村
  流れ得ざる 水の淀みの 椿かな  子規
  紅い椿 白い椿と 落ちにけり   碧梧桐

花の落ちる様、落ちた様が歌になることが余りに多い椿であるが、盛りを過ぎた椿を歌にすることは余り見受けない。

私が花を活けた時に作った句は次の様になった。
  活け椿 向いた横から 話し掛け


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?