(十七)加賀の千代女の「朝顔に釣瓶取られてもらい水」を改作してみた

正岡子規は、この句に対して次の様に述べる。
朝顔の蔓が釣瓶に巻き付きて、その蔓を切りちぎるに非らざれば、釣瓶を取る能わず、それを朝顔に釣瓶を取られたと謂いたるなり。釣瓶を取られたる故に余所へ行きて水をもらいたるという意なり。このもらい水(○○○○)という趣向俗極まりて蛇足なり。朝顔に釣瓶取られたとばかりにて却って善し。それも取られてとは最も俗なり。ただ朝顔が釣瓶にまとい付きたるさまをおとなしくものするを可とす。この句は人口に膾炙する句なれども俗気多くして俳句とは言えない。
(『俳諧大要』、岩波文庫、27頁)

この句は非常に有名であるが、子規は「取られて」という表現が俗であり、「もらい水は趣向俗極まる」と、ひどくこき下ろしている。確かに「取られて」は俗であり、「もらい水」は言い訳、付け足しとなっている。しかし、「俗気多くして、俳句とは言えない」とまで言うことは無い。何故なら、その様なことを言うなら、俳句とは言えない俳句が非常に多い事になるからである。
試しに、当方も同じ状況を詠んでみた。
  釣瓶に 朝顔絡み 弱り顔

作っては見たものの、「取られて」を俗と言いながら、この句の「絡み」もやや俗である。「もらい水」は付け足しの文句と言いながら、「弱り顔」も水汲みができない事がもたらす結果である。水汲みが出来ないことを言おうとすると、俳句が嫌う「説明的な句」になってしまうのである。
今度は、子規の言う通り、「ただ朝顔が釣瓶にまとい付きたるさまをおとなしくものする」やり方で作ってみよう。
  朝日射す 釣瓶にまとう 槿かな
  朝顔が 釣瓶をたより 二つ三つ

この二句の評価は読者に任せるとしよう。


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