人間不在の資本主義

世界には様々なお祭りがあります。
有名なものだとリオのカーニバル
日本の祇園祭やねぶた祭り

テレビなどでも色々なお祭りや民族的な習慣を楽しく表現したものがたくさんあります。私も行ってみたい、一緒に楽しんでみたいというお祭りがたくさんあります。

ただ、時々ふと違和感を感じることがあるのです。
ニュース映像などでその地域の人たちが楽しくお祭りをしている周りを、それをみにきた人たちがカメラを持って囲み、それを観ている光景です。
別に観に行くことは間違いではないですし、勉強になったり楽しみになったりします。
ただ、何となく違和感を感じていました。

アフリカの飛び跳ねる人たち、何でしたっけ?
彼らが、スマホでエージェントと連絡を取り合いながら、観光客の方がきたら民族衣装に着替え、民族的な儀式をする、というような。

観ていて気の毒でもあり、残念な感じもします。彼らはそれで良い収入を得ているから良いのかもしれません。でもお祭りや儀式の本来の意味ってなくなっていませんか?


そもそもお祭りって何のためにあるのでしょう?
例えば、農家の方だったら「今年も大きな災害もなく、たくさん作物が獲れた、よかった良かった。さぁ祝おう!」と言って農家やその家族、コミュニティのみんなで騒ぐためにあったのではないでしょうか?

要するに、「身内の頑張りを讃えたり、来年の成果を祈る、健康を祈るため」に存在していたのではないでしょうか?

人に見せるためではなく、自分たちが讃え合い、憩い合うためにするものなのだったと思います。

それを観ていたある人たちが、「これは観ていて面白い。ここに人が集まればお店も儲かるし、旅館も儲かる。経済が活性化する」
ここまでは良いのかもしれません。でも、そのうちお祭り本来の意味よりも、お祭りを見物に来ている人たちがいかにお金を落としていくかが重要になってきて、本来の「祭りを楽しむ」ことが抜け落ちてしまっているのでは、と思うのです。

この感覚、伝わりますか?
祭りは見るものではなく中に入って楽しむもの。
だって、文化祭の打ち上げでも、仕事やイベントの打ち上げでもみんな参加して飲んで、食べて、声をあげて笑うから楽しいんですよね。
それを外から見ていても「なんだか内輪で盛り上がっているな」
くらいにしか思わないはずです。

お祭りはお祭りをする人たちが主人公で主催者も出資者も見物人も本来は必要ないもの。よく、「この伝統的なお祭りを維持しなくては」と必死になる人たちもいるけれどお祭り本人からしたら良い迷惑。本当はお祭り自体も変化して、今風になって、参加する人たちがみんな楽しめるものになってもいいはずです。

主役のいないお祭り、人間がいなくなった、資本主義のお話でした。

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