ジブリの息子に生まれて 宮崎吾朗が歩んだ葛藤と受難の道

宮崎吾朗は、日本を代表するアニメーション作家である宮崎駿の息子として生まれた。しかし、父の仕事に興味を持たず、ランドスケープアーキテクトとして活躍していた。それが変わったのは、父からジブリ美術館の設計を依頼されたときだった。そこから、宮崎吾朗はアニメーションの世界に足を踏み入れることになるが、それは父との激しい葛藤と受難の道でもあった。

宮崎吾朗は、2006年に初監督作品『ゲド戦記』を発表したが、原作ファンや映画評論家から酷評された。父も「吾朗はアニメーターではない」と言って監督デビューに反対していた。宮崎吾朗は、父の影響から逃れることができず、自分の作風を見出すことができなかった。

2011年には、父が企画・脚本を担当した『コクリコ坂から』で監督を務めたが、これもまた父子の戦いの舞台となった。主人公のキャラクターや物語の展開などについて、父は厳しい意見をぶつけてきた。宮崎吾朗は、父の要求に応えようとしながらも、自分の考えを貫こうとした。しかし、東日本大震災や制作スケジュールの遅れなどで苦境に陥り、公開延期の危機もあった。それでもなんとか完成させた映画は、日本アカデミー賞最優秀アニメーション作品賞を受賞した。父も「吾朗は監督として成長した」と認めてくれた。

2014年には、スタジオジブリから離れてポリゴン・ピクチュアズでテレビアニメ『山賊の娘ローニャ』を制作した。これはCGと手書きを融合させた斬新なアニメーションだった。国内では評価が分かれたが、国際エミー賞アニメーション部門で最優秀作品賞を受賞した。宮崎吾朗は、父と違う表現方法に挑戦した。

2020年には、スタジオジブリに復帰して全編3DCG作品『アーヤと魔女』を監督した。これもまた父が企画・脚本を担当した作品だった。しかし、CGの表現やキャラクターの魅力に欠けるという批判が多くあり、ロッテン・トマトでは歴代ジブリ作品の中で最低の評価を受けた。それでも父は「吾朗は頑張った」と称賛した。

宮崎吾朗は、偉大な父を持つことで多くの苦難を味わったが、それを乗り越えてアニメーション監督としての道を歩んできた。彼は才能がないと言われることもあるが、それは父と比べられているからであって、彼なりの映画作りを続けている。その姿勢は父からも認められており、今後の作品にも期待が持てる。

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