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アンカウンタブルになりたい

昔、私は何にだってなれた。
一番の人間、せめて二番の人間でいれば、大人たちは褒めてくれた。だから頑張って、勉強もたくさんして、そんな人の部類に入ろうとした。頑張ればきっと何でもなれる、と安直な考えを抱いて。

でも私は憧れた彼女になれない。
どんなにどんなに頑張っても彼女は私じゃなくて、私は私にしかなれなかった。一方、人が私になることは簡単だった。彼女のように海外で生まれたわけでもなければ、ミステリアスなセンスもなく、人を惹きつける絵を書くわけでもない。何より、私の特徴は全部カウンタブルなものだったから。コンテストに提出した自作の作文が上位10人だった、とか、絵画が入賞して3番目だった、とか、学年では5本の指に入るくらい頭が良かった、とか。そんなちっぽけな業績、それさえも井の中の蛙なことを中学生になると思い知ることになる。新しい学校に入学すると、私が自信を持っていたものは全て大勢の中の一人まで突き落とされた。よくよく考えれば、作文は他にも上位が9人いるし、絵画は上に1番と2番が居座ってるし、学校の成績だって4本も指が余ってる。ちょっと周りを見渡せば私と取って代わる人、いやむしろさらなる上位互換を加えた人は溢れていた。

私はたくさん転がってるのに、それでも彼女は一人しかいなかった。
彼女はまるでたくさんの素敵なところが交わるその交差点をぎゅっと集めたような感じで、それは彼女をかけがえのない人としている。彼女は私とはできている分子が違う、別世界の住人だ。

私は彼女になれなかったけど、誰も私になれなくなった。
ナンバーワンは上と下に属する。1番の次には必ず2番が存在し、いつだって代替の危機がある。そこに私でいることの価値はなく、私が1番であることの価値がある。つまり、わかりやすく価値を示せるかたわら、1番じゃない私には何もないも同然なのである。対してオンリーワンは、評価は統一できないものの、何方向もの軸からなる座標の一点に属する。そしてそれは私が私じゃないと意味がない。
私が彼女になりたかった理由はきっと、希少性が高かったからかもしれないし、背伸びせず優雅に生きているからかもしれない。でも何を差し置いても、服から始まる彼女の芸術的世界観がそれくらい艶やかだったのだ。人の目を引くものはいつだって精度が高い。おそらくそこに、アンカウンタブルになる意義が詰まっている。
細やかに細やかに作っている私の工芸品は、稚拙でありながら昔よりもずっと独創的となった。けれど、これでは満足できない、市場で認められるまで。その時まで私は作り続ける。

私は互換性のない人間になりたい。

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