美しい希望の季節がすぐそこまで

二十代の後半をバラ色の日々にするためにあと数ヶ月でなんとかしようと決めたのだ。で、そうと決めたら呼びこまれたかのように過去にしまいこんだものがふいに出てきて、それを一つ一つ整理している毎日。生まれた瞬間から持ち合わせている問題はほかの誰が解決してくれるわけでもないから自分でどうにかするしかないのである。業の深さにうんざりして一日でも誰かに代わってもらいたくなることもあるけれども、こればっかりは仕方ないよねえ。どれだけ仕事をしようと恋をしようと人生はひとり。

で、と言って関係があるのかないのか、ずっと封印していたフジファブリックを、ほんとうに久しぶりに、聴いたのだった。

2006年から2009年末までの約三年間、16歳から18歳という人生が加速していくその時期に私はフジファブリックというバンドの音楽を身体に刷り込まれるくらい聴いていた。高校へ入学したばかりの四月、名簿順の座席でひとつ前に座っていた同じイニシャルの彼女が貸してくれたのがアルバム「FAB FOX」だった。家に帰ってパソコンにつっこんでWindows Media Playerで一曲目を流し始めた瞬間、悲鳴みたいなイントロのリフに呆然とし、そして三曲目の銀河でもう、なにもかも奪われてしまった。

いまでもその頃聴いていた曲はイントロの一音ですべての細胞が目覚める。

はじめてひとりでライブハウスへ行ったのもフジファブリックだった。大阪のなんばHatchで、たしかサーファーキドリツアーだったと思う。そのときに買ったグッズのタオル、もうすっかりへたってクタクタだけど今でも使っている。そのころの志村はまだ笑えるほど下手くそなへろへろのボーカルで、でもあの死んだ魚のような眼に爛々と光が灯る瞬間を見逃すまいとこちらを必死にさせる何かがあった。

「武者巡業2007」、「フジファブリック×FUJIFABRIC」(ダークサイドですと言ってつづいた地平線を超えて〜蒼い鳥〜蜃気楼のセットリストはこれまでの人生すべてのライブの中でもベスト3だ!)、いろいろ行った。物販紹介コーナーがいつもわちゃわちゃとじゃれてて可愛かったことや、ツッコミを入れまくる大阪の客に「うるさい!」と言っていたことを覚えている。さらさらの髪の秘訣、シャンプーはダヴ…。そして2009年10月の「フジファブリックデビュー5周年ツアー GoGoGoGoGoooood!!!!!」名古屋ダイアモンドホールが、最後。

もふもふの帽子をかぶってごきげんで、「来年結成10周年なんですけど、二年続けて何年記念ってやると嘘ついてるみたいなのでたぶんやらないです」とにやにやしていた。「これからまた楽しい音楽人生が始まりますよ」「フジファブリックの持っている武器は次作、爆発させるつもりです」。それを、待ってたんだけど。

その日のことも鮮明におぼえている。ものすごく冷えたクリスマスの日の夜、恋人と貧乏学生なりに贅沢しようとはしゃいで自転車で少し遠くの焼肉屋へ行き、お客様アンケートにふざけ倒した回答をして、最高の一日だったねと浮かれながら雪のちらつく中を帰ろうと店を出たその瞬間に、何度も一緒にライブへ行った親友からメールが届いたのだった。「志村が亡くなった」。

あわててガラケーのiモードからYahoo!で検索をかけて、それが嘘でないことを確認した。そして、なんて美しく寂しい日に去るんだろうと思い、心から切なくなった。

帰り道は無言になってしまって、恋人には申し訳なかったなあと思う。大好きだったんだねえと慰めてくれたけど、そうだねと言うことしかできなかった。そのあとどうしたのだったか…。その翌日は大雪で、しんと静かな中「黒服の人」をずっと聴いていたのが記憶に残っている。“それはとても寒い日のこと” “空から降る牡丹雪” “何年経っても忘れはしない”。死者を見送るこの歌で、本人の死を看取ることになるなんて悪夢のようだった。しかもこの曲、アウトロのオルガンが、心電図がゆっくり停止していく音を模しているのだよね。ピッピッピー、ピッピッピー、ピ、ピ、ピー、ピ…ピー……。

志村正彦の悲願だった地元富士急ハイランドのライブ(あろうことか追悼ライブになった)「フジファブリック presents フジフジ富士Q」、そのDVDは2011年の7月に買ったのに五年も封を開けず本棚にしまいこんでいた。これを開けてしまうと本当に彼がいなくなったことを受け入れざるを得ないような気がして。でも今日、たまたまYouTubeで、そのライブで初めてギターの山内総一郎が「フジファブリックのボーカル」として歌った「会いに」を聴いて、あれ、なんか大丈夫かも、と思った。そこにいたのは白いフリルのブラウスで軽やかにギターを弾いて王子と呼ばれていたかつての彼ではなくて、強い眼をした完全なる「フジファブリックのフロントマン」だったから。

「環状七号線をなぜだかとばしていくのさ」と歌うその「かんじょうななごうせん」は当時、地方都市の少女にはなんだか暗い宇宙を縦横無尽にうごめく迷宮のように思えていたけど、まさか10年後の自分が毎日のように夜中のタクシーで「環七を右で」なんて言うことになるなんてもっと想像できなかった。「東京の星空は見えないと聞かされていたけど 見えないこともないんだな」って心のなかでつぶやくためだけに東京へ来てよかったとすら思う。

志村正彦の死後、残されたメンバー三人の初舞台は吉井和哉のバックだった。そこで吉井は、志村が生前最後にイエローモンキーのトリビュートアルバムで発表した曲「FOUR SEASONS」を歌った。そして更に時が経っていま、イエローモンキーは再集結し、伝説ではなく現代をもう一度生きるロックスターとして歌い続けている。

「アンコールはない 死ねばそれで終わり」?

そうとも限らないのかもしれない。

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