すくい

もたれかかったりよりかかったりすることの煩わしさと、その生ぬるい温度の心地よさについて。

その夜は梅の花が咲いた日だった。気心の知れた友人と駅前で合流して、賑わう呑み屋街を通りすぎ静かな小料理屋に入ったのが21時。そら豆、筍、銀杏、桜色の小海老、あんかけのお豆腐、あたたかい日本酒。冬がゆるんで春へと向かう、その幸福をあじわって命を満たすような食事。

だれかを救いたいと思うのって寂しいわ、と思う。どうしたってその人の暗やみには入っていけない。灯りのともらない部屋を外の夜道から祈るような気持ちで眺めることしかできない。

そんなの、救えなくていいんじゃない?と山菜の天ぷらをかじりながら友人が云った。他人は他人だもの。どうしようもないよ。

わたしもそう思うよ。

でも、全身が濃紺にひたひたと染まっていくような悲しさや、果てしない白夜のなかにひとり取り残されたような不思議に明るい絶望(諦めのずっと先にある景色)、そういうものって、一度その風景を見たことがある人にしか決してわからない。そして一度その感覚を知ってしまうと戻れないし、いままさにそこにいる人に出会ったとき、痛みを昨日の自分のことのように感じてしまう。共感や同情より、もっと切実な感情。

だれかを救うこと、だれかの辛さを掬いあげること。それは一方でその人の胸にむりやり巣くうようなことなのかもしれないけれど、強引にでもそうしたいときもある。優しさなんかじゃなくてわたしのエゴでしかないけど、違う世界に連れ出してくれる何かや全てを変えてくれる魔法を夢見てなんとか生き延びた昏い夜たちのことを思い出すとどうしようもなく、やっぱり居ても立ってもいられないのだよね。

でも大人になるまで生き延びてよかったと思うのは、救われるすべを少しずつ手に入れられたこと。生活の無為のなかに悲しみややるせなさを溶かしていくやり方を知ったり、一緒にいるだけであたたかいシェルターの中にいるみたいな気持ちになる味方を得たり。そして気づいたら、魔法をかけられることよりも、だれかの魔法使いになることが、今の願い。

ほろ酔いの帰り道、大井町の高架線沿いで丸い花が点々と街灯に照らされて、甘い匂いが街にうっすらと霧のように漂っていた。

2015年の冬はこの曲ばかり聞いてた。救われずに寂しい顔をしていたひとに聞かせたかったけど結局、聞かせないまま、もうすぐ春になる。

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