対岸で燃える炎は美しいか

劇場でダンスや芝居を観ながら、いつも心によぎることがある。
「この暗転のあとに世界のすべてが変わっているかもしれない」。

まさにそんな毎日だな、と思う。物語の展開の話ではない。この暗闇が明転したらそれまで見えていた何もかもが幻のように消え去っているのではという、うっすらとした恐怖と緊張のような何か。いま客席に座っている自分の肉体が胡蝶の夢でないという確証はない。
このところの一連の騒動と私生活の問題の挟み打ちでわりと疲弊していて、その中で観た作品がどれも今の現実世界とあまりに繋がって見えてしまったから余計にそんなことを考えるのかもしれない。

その一つが京都の劇団・MONOによる芝居『その鉄塔に男たちはいるという+』。1998年に初演されOMS戯曲賞大賞を受賞し、様々な劇団によって上演され続けてきた作品だ。ずっとタイトルを耳にはしていたのだけれど、今年がMONOの30周年ということでオリジナルメンバーで再演され、ようやく生で観ることができた。
再演にあたり追加されたのが、物語の前段にあたる第一幕だ。
海外旅行へ来ている若い夫婦(幼い息子がいるが離婚危機)、夫の妹(お節介なかまってちゃん)、そしてその友人であり案内役をしている現地に住む女性という微妙な距離感の四人は、それぞれの関係性の中にある不和を抱えながら、何もない外国の田舎町の鉄塔の上で次のバスが来るまでの二時間を気まずく過ごすことになる。ここでは五十年前に起こった民族間の紛争の記念碑として銃撃を受けた人形劇小屋がそのままに残されており、激しい口論を終えた四人はひとまずの和解を経て脱力したようにそれを眺める。

「……人形劇やってるだけで殺されちゃったりするんだもんね。」
「え?」
「戦争になったら。」
「いきなりなんですか?」
「ま、その点だけは良かったよ。」
「何が?」
「昔とは違うっていうか、この国とは違うっていうか。多分、俺が戦争に巻き込まれることはないだろ?」
「それはわからないでしょ?」
「いや、遠い将来的にはアレかもしれないけど、ま、陽乃介が生きてる間ぐらいは大丈夫だろ?」
「まあねえ。(笑って)あの子は絶対に無理だよね。」
「なに?」
「気が小さいから。」

そして物語は数十年後を描く第二幕へと移る。
外国の戦地を慰安に訪れたパントマイム劇団「ダビッドマイムカンパニー」のメンバーは、一週間後に迫った「ゲリラ一掃作戦」なる銃撃戦を前にリーダーを残して駐屯地から脱走し、森の中の鉄塔に籠城している。そこへ同じく駐屯地から逃げ出してきた兵士が加わり、奇妙な共同生活がはじまる。
エンターテイメントを生業として生きてきた者たちが、死の恐怖と隣り合わせで過ごす数日間の物語だ。軽妙な会話劇は緊張と緩和を繰り返しながら終末へと向かう。
戦争の最中を鉄塔へ逃走してきたダビッドマイムカンパニーのメンバーの一人が第一幕で登場した若い夫婦の息子、"陽乃介"であることは、観客しか知らない。

当初は小学生の修学旅行の夜のようなテンションで過ごしていた彼らだが、逃走兵の登場により、ばれていないと思っていた自分たちの居場所が駐屯地ではとっくに噂になっていること、慰安公演のパフォーマンスで大笑いしていたように見えた兵士たちの間で起こっていた残虐な殺人などを知り、徐々に精神的に追い詰められていく。暗転するたび、空間を満たす不安と緊張の水位がじわじわと上がっていく。

共同生活の不満やストレスが溜まりやがて分裂していく中で、メンバーの一人が怒りを発露する。「そんなえらそうに言うなら、こうなる前に、もっと何かすればよかったじゃないですか!」
もう一人の男が呟くように言う。

「まあなあ。それは本当そうなんだけどさ。……殺伐としたところからとにかく遠い存在でいたいんだよ。ま、無理になっちゃったけど……だからせめてだよ。せめてなんだよ。銃撃の音が聞こえて、不安になってもマイムカンパニーって歌ってたいんだよ。……キリギリスが駄目なのはさ、冬になってアリの所に行くじゃないか? 冬でもキリギリスは歌ってれば良かったんだよ。所詮そういうもんなんだから。」

ほとんど夢物語だ。しかしこんなにも切実な祈りがあるだろうか。これを本気で考えなければならない嘘みたいな現実を、2020年の日本で、私たちは生きている。

一週間が経ち、銃撃戦が終わってほっとしたのもつかの間、彼らは鉄塔の下からこちらを見上げて笑いながら銃を向けてくる兵士たちに気づく。臆病な脱走者たちは戦争が収束したとて許されざるふざけた裏切者であり「裁くべき戦犯」なのだ。

「どうしますか?(中略)冬が来てもキリギリスは歌うとかなんとか……言ってたじゃないですか?」
(中略)
「このまま黙って殺されます?」
「え?」
「悔しいじゃないですか……黙ってうやむやの内に殺されるなんて悔しいじゃないですか?」

そして彼らは鉄塔の上から決死のパントマイムショーを披露する。
「おい……ほら……」「笑ってるな」「手拍子してるヤツもいますね」。
一筋の希望が射す。「ボンボンバンボ、ボボンボバンボン、ウィーアーダビッド、マイムカンパニー!」
オープニングのポーズがきまり陽乃介の前説が始まる。
「えー、少し晴れ間ものぞいてまいりました……」
――暗転、銃の乱射音。終幕。

鳥肌が立った。軽快でテンポの良い会話劇と今この状況でこの芝居をやることのぞっとするような重み、その間に横たわる異様なほどの現実感。五臓六腑にずっしりと冷たい石を載せられたようだった。
キリギリスは冬をどう生き延びれば良いのだろう。アリは大切に作った巣が踏み潰されたらどこへ行けば良いのだろう。キリギリス的世界で働きアリの一匹としてあくせくと寡黙に日々を送る私の向かっている道はどこへ続くのだろう? 気もそぞろなまま、監視しあう人々を横目に右往左往している。

もう一つ印象的だったのが、グザヴィエ・ドランの新作映画「ジョン・F・ドノヴァンの死と人生」の中で、かつて有名なスターと文通をしていた少年が大人になり取材を受けるシーンだ。
環境問題や社会問題を扱う記者にとってそのインタビューは突然舞い込んできた"迷惑な仕事"であり、くだらない芸能ゴシップに割く時間はないとばかりに苛立ちを隠さない。不機嫌な顔でカセットテープを回し始めた彼女は話の途中で顔を顰めて言う。
「ごめんなさい、ちょっと私には世界が違いすぎて……。」
しかし彼が本当に語ろうとしているのはスキャンダラスで華々しい有名人の半生の暴露などではない。親子関係やセクシャリティ、孤独にもがき苦しんだ二人の人間の生身の物語であり、そしてそれと分かち難く結びついた差別や偏見、人権についての切実な祈りなのだ。
「恐怖や無知、偏見をなくしたいんだ」「あなたと同じ。不寛容な時代と戦ってる」。
記者は眼鏡を掛け直し、テープを裏返して録音ボタンを押し、続きを促す。どこの街にもありそうな、陽の差す午後のカフェの片隅。個人対個人のミクロの出来事がマクロの世界と結びつく瞬間が、鮮やかに描かれる。

同時に思い出したのが映画「パラサイト」だ。
劇場で観たとき、貧富や教育レベルの差をユーモラスかつ残酷に描いたシーンで思いがけないほどの笑いが巻き起こっていて、背筋が凍る思いだった。ブラックジョークとして済ませるにはあまりにも現実に起きていることばかりで、それをこんなにフィクションとして無邪気に楽しめる人がいるのかとぞっとしてしまったのだ(もちろんあの映画はそうやって観るのがひとつの醍醐味であることは承知しているのだけれども)。
まるで濁流の川で溺れる者が藁を掴んで喘いでいるのを橋の上で笑いながら眺めているようだった。今すぐに大きな地震が来てその橋が真っ二つに折れたっておかしくはないのに、と恐ろしく思いながら、しかし自分もまた同じ橋の上に立っているのだった。

いま「暗転」すれば次に眼を開けて見えるのは違う世界になっていないだろうか、と祈るように思った瞬間がこれまで数え切れないほどあった。
それでも、何度目覚めてもまだ地続きの世界にいる。あのとき自分が生きたかったのか死にたかったのか、そして“生き延びた”のか“間一髪を逃げおおせた”のか、ずっとわからないままだ。

死にぞこなった、とはまだ思わずにいたい。

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