真っ赤なジャムのことをいつも考えていた

※2017年のお正月に書いてそのまま下書きにしまいこんでいた、誰に向けたわけでもない長いポエムのようななにか。2004年12月26日の「JAM」が今夜日の目をみるということで、ちょっとひっぱりだしてみることにします。

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うるう年でない年に、今年は2月29日がないんだな、と思い出す人はどれだけいるだろうか。私たちは存在するものしか見つけることができない。不在のものを思い出すことは、とても難しい。

わたしがTHE YELLOW MONKEYというバンドと出会ったとき、それはもう、この世に存在しないものだった。
1989年に結成され、デヴィッド・ボウイに憧れた青年・吉井和哉を筆頭に、グラムや歌謡曲の要素をとりまぜた妖艶で湿度のある音楽を奏でる四人組のロックバンド。全員が長身で眉目秀麗、派手な衣装に酒と煙草の似合う少女漫画のような出で立ちで熱狂的なファンを抱えた。しかし、ミリオンヒットを売り上げたシングルもなければ、時代の顔と呼ぶにはどこか掴みどころのない存在であったという。
解散の理由もまた、Wikipediaが語ってくれることはあまりに僅かだった。メンバーの不和でもなく、事務所とのトラブルでもなく、強いて言うならば金属疲労のようなものだったのだろうか。ただ、これ以上はもう無理なのだという絶望と諦めが間違いなくそこにあった、ということだけが、じわじわとピクセルの文字列から染み込むように伝わってきた。

インターネットのある時代に生まれてよかったとあれほど思ったことはない。そして同じだけ、遅すぎた、と幾度となく唇を噛み締めた。どれだけWWWの深海へ潜っても彼らの姿はいつも漠然としていた。
はじめから失われているものを追い求めることの、どれだけ虚しいことか!けれど、なにか衝動や激情、あるいは濁流のようなものに呑み込まれたかのように、その不在の存在を追い続けずにはいられなかった。

解散後の東京ドームでたった一曲だけ演奏された「JAM」が、彼らの最後の舞台だったという。インターネットに転がっていた不鮮明なその映像を十代のころ、何度も何度も繰り返し見た。
「僕は何を思えばいいんだろう/僕は何を言えばいいんだろう」―その問いに、誰がなんと答えられただろうか。
黒ずくめの服に身体を包んだメンバー四人の色褪せた笑顔が灼きつくようだった。ずっと歌っててください、という吉井の言葉と共に演奏はフェードアウトし、観客のコーラスだけが最後まで響きつづけた。
Yeah, yeah, yeah, yeah, yeah, Are you a dreamer? Are you a dreamer? Yeah, yeah, yeah, yeah, yeah...

未完の「JAM」はそのまま、THE YELLOW MONKEYのレクイエムとなった。そして、15年が経った。

2016年、再集結とアリーナツアー、そして新曲を発表してからのイエローモンキーはまさに破竹の勢いだった。ツアー二日目にして吉井が宣言した「イエローモンキーはもう二度と解散しません」という言葉もまた、それを加速させる燃焼剤となったのかもしれない。
彼らのトラウマの一つでもあった夏フェスへの参加、15年ぶりのシングル発売(しかもゴールデンタイムのテレビドラマのタイアップというおまけ付きだ)、解散の一因とも語られた1999年の辛い記憶を浄化させるかのようなホールツアー、さらにファンの中では伝説と化した武道館公演・メカラ ウロコ。そこでは翌年の東京ドーム公演開催までもが発表された。
その輝かしい一年を締めくくる舞台、NHK紅白歌合戦で、彼らが演奏したのは「JAM」だった。

2016年12月31日。朝日新聞の朝刊を見て驚いた人はどれくらいいたのだろうか。そこには「暗い部屋で一人/テレビはつけたまま」からはじまるJAMの歌詞が綴られた全面広告があった。思わず涙がこぼれた。

15年という年月は決して短くはない。THE YELLOW MONKEYが不在のあいだ、アメリカでは同時多発テロがあり、東日本大震災があり、数え切れないほどの生と死があった。「過ちを犯す男の子」から浮かぶ姿が父に、友人に、恋人になった日があれば自分が「涙化粧の女の子」そのものになった夜もあった。悲しい気持ちを持て余すたび「素敵な物が欲しいけどあんまり売ってないから好きな歌を歌う」、そう呟きながら脳裏ではいつもあの未完のJAMが響いていた。Are you a dreamer? 信じられるときもあれば、そうではない夜もあった。真っ赤なジャムはときに情熱で、ときに鮮血だった。

再集結に至るまでの経緯は枚挙に暇がないほどこの一年間で語られてきたが、その中で吉井はこう語っている。
「いろんなことがあって、その度に何で俺はイエローモンキーじゃないんだろうって思った」
本当に、ただそれだけのことなのだった。

その夜、「また明日を待ってる」と口ずさむことができる、その事実だけで感無量だったファンがどれだけいただろうか。かつてこの曲に救われた人々は、どんな思いでTVを眺めただろうか。「僕は何を思えばいいんだろう/僕は何を言えばいいんだろう」―その答えはまだ誰も手にしていないのかもしれない。でも、もう畏れるものは何もなかった。そこにはまさに「数えきれぬ夜を越えて/僕らは強く 美しく」なって帰ってきた、"THE YELLOW MONKEY SUPER" がいた。

紅白歌合戦の舞台で、イエローモンキーはかつての東京ドームを彷彿させる黒ずくめの衣装でステージに立った。そのとき吉井の胸には、この曲を世に出すために奔走し、やがて袂を分かち、後に若くして亡くなった当時のスタッフの写真が収められていたという。

「JAM」は当初、様々な事情からシングルとして発表できるかどうかもわからない状況だった。1996年1月12日のライブを収めたDVD「TOUR '96 "FOR SEASON" at 日本武道館」の最後に、その初めての演奏を観ることができる。

「せっかくだから、新しい曲、聴いてください。えーっと、残念ながらまだ、発売が、予定です。決定してません。えー、今度出す、出すじゃない、作った曲は。JAMっていうんだけど。知ってる? 噂は。」

そのまだあどけないとも言える吉井の表情は晴れやかな希望に満ちている。
「ここから日本のロックを変えるとこなんだ!」

しかし彼はまだ知らない。その言葉通り、やがて1996年2月29日にリリースされたこの曲がロングヒットし、名実ともに日本のロックンロール・アンセムとなっていくことを。いずれ彼らの前に立ち塞がる長い冬のことを。20年後、人々がこの歌を聴いて涙する日が新たにまた訪れることを。
歌は高らかな宣言ではじまる。

――「強く強く、生きていきましょう。JAM!」

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