熱狂という蜃気楼の所在地について

人生のほとんどを「エンタテインメント」もしくは「アート」と呼ばれるものに費やしてきた。ほぼすべての週末はライブ会場か劇場、そうでなければ静かな自宅で死んだように眠るという生活を送るようになって久しい。アイドルにバンド、シンガーソングライター、演劇、2.5次元、オペラ、バレエ、コンテンポラリーダンス、クラシック、古典芸能、歌謡ショー、お笑い、声優、ドラァグクイーン……どの舞台にもどんな役者やアーティストにもそれぞれにその瞬間にしか見られないエフェメラルな輝きがあって、それをどうしても見逃したくないという情熱とも焦燥ともつかない何かに駆り立てられるように、とりとめもないほどあらゆる現場を年がら年中駆けずり回っている。いた。

手持ちのライブチケットが「延期」から「中止」になり続けて4ヶ月が経とうとしている。もうすっかり慣れたかと思っていたのだけれど、さっき街を歩きながらまたひとつ「年内の全公演中止」という知らせがやってきて、ああ、もうやりきれない、心底しんどい、とその場にうずくまりそうになってしまった。のでこんなものを書いている。

この数ヶ月、渇きを埋めるように毎日のようにあらゆるエンタテインメントの「配信」を有料/無料問わず浴びるように観ている。音楽ライブ、映画、演劇、お笑い、トークショー、講義、好きなバーのオンライン飲み。それぞれのカルチャーごとに全く異なる広がり方がそこにあって面白い。
ツールもYouTubeにはじまりインスタライブ、Twitch、LINE LIVE、Periscope、SHOWROOM、イチナナ、Zaiko、もう少しクローズドなコミュニティではZoomやSkype、Remo、Google Meet、Discord、そしてよりバーチャル空間上のイベントに「居る」ことを感じさせるものではspatial.chat、hubs、clusterなど枚挙に暇がない(おかげですっかり詳しくなってしまった)。
どれもそのプラットフォームのもともと持つ特色だけでなく独自の進化を遂げており、ユーザー層もコミュニケーションの文法もまるで異なっている。同じ“視聴”といっても全く異なる体験で、発信される内容もびっくりするようなスピードで各分野の「リモート式表現作法」が形成されていくのをまざまざと感じる。

しかしそれでも、観れば観るほど、画面の中にライブの「代替」を見出すことはできないと思ってしまうのだ。でも、じゃあ、私が物足りなさを感じている理由はどこにあるのだろうか?
画面の前に座っていて決して得られなかったもの。時間(とりわけ現場へと向かう前後のイントロとアウトロの)。空間(非日常的な場所への移動)。五感(汗で張り付くシャツ、銀テープや紙吹雪が指先をかすめる感触、埃と煙草とアルコールがうっとりと混ざりあったライブハウスや噎せるほど焚かれた甘く苦いスモークの匂い)。そして拍手や歓声、跳ぶ、踊るといった運動による興奮と疲労。
例えばこれらを一つひとつ4DXのように埋めていけばそれが「ライブの疑似体験」になり得るのだろうか。どれだけ挙げ連ねても、あの空間にしか存在しない、抗えない引力のようなものを再現できる気がしない。

「同じ空間を共有する」ということについて、吉岡洋氏がこの春からの大学講義をリモートで行うにあたって述べられていた文章がとても印象的だったので以下に引用する(その少し前のエントリ「芸術が社会に役立つということ」もよければ合わせてぜひ)。

関西学院大学「美学特集講義1」第1回 より

オンラインの講義など無意味だと言いたいわけでは決してありません。それは後述するように、対面的な講義よりも優れた点が確かにあります。ただオンライン講義は、「講義」という名前は付いているものの、本当は講義とはまったく別な何かなのです。
オンライン講義という状況は、講義という活動に潜在していたまったく別な性格をも露わにしていると思います。それが「情報を伝達する」ではなく、「一緒にいる」という側面です。(中略)オンライン講義を可能にしている現代の情報テクノロジーは、そうした近代的な講義を極限にまで効率化することによって、講義という行為の近代的な見かけの内部に隠れていたものを、露わにしているとも思えるのです。
それは何かというと、言ってみれば、私たちの遠い祖先たちが焚き火を囲んで集まって、長老やシャーマンの話に耳を傾けているような情景です。皆さんは、そんなものは文明化以前の原始的な段階であって、現在の私たちの世界には関係のないものだと思うでしょうか? 私は決してそうは思いません。過去は完全に過ぎ去ることはなく、私たちが「新しい」と信じている活動や行為の隠れた「核」のようなものとして、生き続けているのだと考えています。そしてその「核」が、最先端のテクノロジーによって、再び力を獲得し、表に現れていることがあるのではないか?と。

この「焚き火を囲んで集まって、長老やシャーマンの話に耳を傾けているような情景」というのは非常にわかりやすく的確な表現だと思う。そして上記のテキストは大学における講義についてのものであるけれども、まるごと「ライブ」に置き換えても成立するだろう。音楽や踊りというのはもともと儀式や祭り、祈りといったものと分かちがたく結びついてきた。「同じ時空間で同じ熱狂と陶酔を共有する一回性の体験」として、現代においてそれがアイドルが東京ドームでコンサートをやるといった極度のエンタテインメントになっても、その呪術性のようなものは失われていないと思う。

ライブはセックスだと初めに言ったのは誰なのだろう。圧倒的なものに全身を満たされてうっとりと熱く甘く酩酊したまま会場から一歩を踏み出した瞬間に頬をぬるく撫でる街の匂いと喧騒の感触、そして駅までの道を歩くうちに腑抜けた自分の身体へゆっくりとさざなみが引くように五感や理性や魂が少しずつかえってくるあの鬱陶しいほどの生々しさ。幾度となくそんな小さな死と再生を繰り返して、心に何百、何千もの地層を積み上げてきた。
同時に、現場でだけは何もかもを忘れられた。自分の存在すら忘れてそこに広がる光景にだけ没頭できることが、どれだけ救いになっただろうか。
ライブはその名の通り生きることであり、現実を生き延びるために少し未来へ自ら建てる灯台のひとつであり、そして私にとってはもう、人生そのものでもある。

一説によると、昔の人が銭湯に通ったのは非日常の体験を得るためだったそうだ。ペンキ絵の富士山は言わずもがな、唐破風様式の宮造りの門構えは遠くてなかなか行けない伊勢参りを模したとも極楽浄土の入り口をなぞらえたとも聞く。また、身体を清めると同時に日常の中では得られないレベルで体温を上下させることで身体の耐えられる環境のしきい値を広げることが健康に繋がる(今でいうHSP入浴法みたいなものかしら?)と考えられていたという。ライブに行くというのはある種そんな体験のひとつでもあるかもしれない。

ところでコンサートに行くと寿命が延びるという研究結果もあるらしい。どこまで信じて良いものかはわからないけれど(2週間に一度ライブに行ける人間というのはそもそも経済的な余裕があり、趣味に時間を費やすことができて好きな音楽があるという時点でわりと幸せなのではないかという気もする)、あながち外れてもいないとは思う。希望的観測。

この夜、落ち込んでいたところに超特急のスタジオ生配信ライブを観た。内容はさておき、時が進むにつれメンバーの顔が明らかにエネルギーに満ちてきらきらと輝いてくるのを見ていると本当に胸が詰まってたまらない気持ちになった。この幻みたいな瞬間、とっておきの秘密を同じ空間で共有するためにライブに行くのだ。
東京は梅雨に入った。いつもならばからりと眩しい夏の訪れを願う季節だけれど、いまはあの蜃気楼たちのぼるような熱狂の空間だけが恋しい。

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