やさしい人々

この春はしばらく仕事を休むことにしたのだった。

で、そうと決めたら驚くほど滞りなくなめらかにことが進んで、気づけば南の島にいたのが先週のこと。いわゆるバカンスというやつ。日本の海よりもずっと塩分濃度の高い水はとても浮きやすくて、口の長い透明な魚に囲まれながら空を眺めていたら鼻のあたまだけが灼けたけれどそれも幸福の名残といったかんじで悪くない。ありがとうバカンス。ありがとうボーナス。夜中の歌舞伎町でやさぐれながら決めた旅にしては素晴らしかったぜ。

ただただ優雅で怠惰に過ごすことだけを決めて行ったものだから、朝食はのんびりとルームサービスをとって二度寝して、目前に美しいビーチが広がるテラスで本を読んではまたうとうとして、明るいうちから飲んで、まさに極楽だった。ラムの葉巻は少し獣の匂いがした。

人は満たされるとほんとうに欲が消えるんだなと不思議な感慨を覚える。高級百貨店をさんざんひやかしたけれど、海辺の藻がふかふかなことや棕櫚の大きな葉が風になびいて立てる音のほうがずっと感動した。透明なグレーの皮膜がぴったりと貼り付いて息をすることも難しかったこの半年間がきらきらの潮風に溶けていって、すべての重力から自由になったような感じ。セロトニン不足にはビタミンDだってほんとね。

帰ってきてみたら東京では相変わらずいろんな修羅場がおこっているし街は騒がしいけれど自分の身体は憑き物がおちたようにすっきりしていて、でも欲望がなくなったあとに残った空洞が少しひんやりする。

旅の思い出はココナッツワインと、夜のジャスミンみたいにひんやりした匂いの香水。

ありがとうやさしい人々。この休暇のためにそっと力を貸してくれた彼らが安らかでありますように。

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