レニィさんと言葉という刃。

言葉は、刃である。
『ペンは剣よりも強し。』という、言葉が誕生したらしいのは、結構最近で、19世紀のイギリスの劇作家が作中の台詞として生み出したのが起源だという。
確かに、19世紀ともなれば、印刷技術の発展や識字率の向上から、たった一本のペンから書かれたとしても、言葉は、それこそ津波のように大きな影響力を持って、人々を薙ぎ倒していったのだろう。
だけれど、思うに、言葉が剣より強いなんてことは、古代の頃、人が思考し、なにかを伝えるようになった時からずっと、ずっと強かったんだろうと思う。
誰もそのことを指摘しなかっただけで、本当はずっと、言葉は人間が常に持ちうる刃であったんだろうと。
その刃は、使い所を間違えれば、たちまち多くのものを傷つけ、断ち切り、時に本物の武器が現れることとなる。
だから、たまに人はその刃を収めて、立ち回る。傷つけないように、断ち切らないように。

でもその刃を収めるのは、鞘ではなく、言葉を持った自分自身だとしたら?

他者へ向けまいと、刃を自分の中にグッと収め込んでいたとしたら、言葉が傷つけ、断ち切り、切り裂くのは自分自身。
もちろん、上手に傷を癒すことができる人も、仮想の鞘を作って収めることができる人もいるのだと思う。
だけど、そういうのが下手な人間は、常に自分を殺すかのように、言葉の刃を収めてしまうのではないだろうか。
自分を切り裂いてしまう言葉の数々に、瀕死になって、息をするのもやっとになってしまって、いつか死んでしまう人だっているかもしれない。
死にたくなくて、どうにか足掻こうとした人間は、反動で刃を他者に向けてしまうかもしれない。
今まで、向けまいと、身の内に仕舞い込むうちに他の言葉の刃と擦れていくうちに、普通のものよりも何倍も研ぎ澄まされてしまった刃を他者に向けてしまう。

後悔先に立たず。複水盆に戻らず。
放った言葉の刃は、絶対に戻ってこない。
それでも、時には言葉の刃を他者に向けなければ、自分が死んでしまう。

言葉とはなんて恐ろしくて、チカラのあるものなのだろう。

言葉は、刃である。

この世で一番恐ろしい、刃を持った刀を、わたしは知らぬ間に握っている。

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