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負けたくないから頑張る

 かなり前の事。仕事であるスーパーの従業員休憩室を訪ねたところ、壁に大きな張り紙があった。それは業務中の装飾にかんする規定と、共に「パートさん同士のお洒落競争はやめましょう」とあった。その時は、「あるのかそういうの」と驚きと同時に、「わかる気もすると」と思った。当時の私はノーメイクを好むタイプの男性と交際しており、その生活はとても楽だった。装飾で女性的価値を高めるといった価値観を気にしなくても生きていけるその環境は気が楽だった。ただ、「装飾で女性的価値を高める」という感覚がわからないわけではない。
 自分が望む通りに美しくなっていくのは悪いことではない。しかし、そこに「他人と比べてより評価の高い容姿でいられるかどうか」という勝ち負けのような判断が加わるのなら、その目的は「美しくなること」ではなく「他人に勝つこと」だろう。ではそこで競われるのは「美しさ」である必要はないではないか。何故勝ちたいのか。
 更に昔の事。私はある出版社で働きながら、編集業に就くことを目指していた。出来るだけ多くの人に編集者志望であることを知っておいてもらった方が、チャンスもあるかも知れないということで、私は周囲にそれを知らせていた。そして編集の仕事も少しずつ任せてもらえるようになっていた。私は編集部の事務業がメインのアシスタントだったのだ。
 それから数ヶ月後、編集業を志望するアシスタントは格段に増えた。元々編集者志望でアシスタントになった子も、仕事として事務アシスタントになった子も様々だった。それでもいつの間にか、アシスタントの任期が終わったあとは編集者を目指す人が増えていた。それまでは、編集業ではなく、異業種に転職先を求める人も多かったのに、そういう人はほぼいなくなっていた。
 そして幸運にも、事務アシスタントから編集アシスタントになり、やがて編集部員として雇われ直す人は増えた。
 一年もたたないうちに、多くの人は転職した。
 真剣に編集部員を目指している人と、そうでもない人ははっきり分かれていた。私は内心、そうでもない人については「職歴増やしてしまうだけだから、もっと自分の人生設計に合う仕事を探せばいいのに」と思っていた。とりあえず就いても、編集業以外の遊びや人付き合いを諦めて没頭する事が幸せでなかったら、いい仕事ではないと思う。人の事は見えるものだ。それでも雇われるのだから、なかなか身内に甘い出版社だったのかもしれない。
 何故、あの人達は編集者になりたがったのか。皆が目指す雰囲気になったからなのだろうか。
 その時の「何故なのか」という気持ちを覚えている。
 それをまた最近思い出した。私には神推しの超絶好きな作家がおり、その小説家の書くこと語ることが面白くて幸福の限りで、ひとつでも多くその面白さに触れて楽しく暮らしたいのである。そのような動機から、私はせっせと勉強をしている。ちょっとでもその小説家の書くこと語ることへのアクセスを高めるためである。その間に、西洋文化も学ばねば、と、思い立ち、文化を知るなら哲学も必要、と考えて哲学の勉強もはじめた。とりあえず学部の基礎教養からさらい直そうと思っていたが、これがやはりかなり難しく、齧りついてやらないと追い付けない。
 私としては必死なのである。ただ必死なのである。
 しかし世の中には優しい人々がいるもので、必死にやっていると、特に先生方というご職業の方々は、アドバイスを下さるわけで。
 そんなこんなのうちに、少しだけ親しくなった先生方も増えて来たのである。
 私思うに、私だって神推し作家を同じように推す人に会ったら愛を抱くし、例えばファンイベントをやろうとしていたら応援もする。積極的に。自分が好きで好きでしょうがないものの良さをわかってくれる人は心の友なのだ。相手が先生方の場合、立場は違い私はひたすら受け取り教えてもらう側だが。
 それだけの事なので、キーワードは「超好き」だと私は思っている。
 ただ、世の中には器用な人々がいるもので、彼らは大して好きでなくても別の目的のためにすごく頑張れる。それは堪え性のない私にはたいへん苦手な分野でもある。
 それほど好きでなくても、「親しげなのが羨ましい」という理由──なのかよくわからないけど──で、一生懸命勉強する人達という方々もいるようなのである。これがお洒落競争か……と、さみしい気持ちなのだ。彼らが何よりも好きなのは自分自身だ。私の大事な大事なそれを、あなたもいちばんに愛してよ、と、思う。人の自由なのでどうこう出来ないが、対象への愛の不在をさみしく思う。

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