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自分の頭で考えることの難しさについて。

コロナ関連で情報を探っていたりすると度々目にするのが『自分の頭で考える』という文言。

今となっては積極的にそのような主張をする人こそが胡散臭いと思ってしまうくらい私の中で印象が変わってしまった。私も軽々にそのような言葉を使っていたかもしれないので、自身の反省のようなものだが今回の記事で書いておこうと思う。

ちなみに、この記事のタイトルを見て読んでみようと思った人にとっては自明の内容がほとんどかと思うため、おわりまで飛ばしていいかもしれない。長いし。


◆マスクという軸

私はマスクについて結構調べている。

目を通した関連論文は50を超えるだろうし素人なりに精査しレビューを書いたものは20を超えているはずだ。素人なのにこんなことをしているなら『マスク教の信者』とか言われても仕方ない。ちなみに『マスクの効果』という曖昧な表現への回答としては『わからない』という結論になるので信者として申し訳ない気持ちだ。それでも詳しくなったほうだろう。

さて、そうしてわかったことは『大多数がマスクについて自信満々に適当なことを言っている』ということで、これはマスクを推奨する人反対する人どちらでもだし何なら過去の自分も対象になる。『みんな、みんな、間違ってる!!!』こうなってくるといわゆるメンヘラというかどう考えても私が間違っているのだが、『みんな』と言ってもツイッターことXとかでマスクについて強く主張している人たちのことなので厳密にはまったくみんなではなくむしろ特殊な人たちだと言える。

それはともかく、マスクという『軸』を持てたことは私にとって有益だった。

マスクについては、奴隷、顔パンツ、無思考、情弱、羊、信者、死ぬまで着けてろ、日本の為に死んだほうが良い、とか様々な侮蔑の言葉が見られたので(今もよく見られる)それもまた有益だった。

その人がどれだけの精度や重みで情報発信しているのかがわかるからだ。そうしてわかったのは自分の頭で考えることを過信している人はろくなもんではないということ。


◆信頼できる専門家について

私はワクチンを打っていないためワクチンのリスクを情報発信するガチプロの研究者っぽい人の情報を目にすることがある。ワクチンについて参考にするならやはりガチプロに限る。

ちなみにマスクに関する日本のガチプロは論文等で名前を目にする何人かが思い浮かぶが、SNSなどでの情報発信はしていないし匿名でもやっていないと私は推測している。少なくともめっちゃ詳しい人は方向性がどうであれSNS上で目立っていない。私が知る限りゼロである。

ところで私がワクチン絡みで比較的信頼している人の特徴として『自らの専門領域をわきまえている』という傾向はあるように思う。具体的に言うならたかがマスクですら物言いは穏やかで、ニュアンスの解釈になるが『おそらく効果はある/ない』くらいの強度でたまに言及する程度。そして品位を保ちマスクを着けている人を羊などと蔑んだりしない。普通の感覚だが。

イメージで言えば反ワクチンだから『マスクの効果は無いか有害』というポジションをとれば支持者は喜ぶだろうが、しない。そのようなブランディングをしているだけかもしれないがマスクに限らず非専門領域への慎重な態度を私は信頼する。


◆自称、自分の頭で考えている人たち

一方、医者を含むガチの研究者でもない人は大体手広くやっており、反ワクチン的なポジションであれば以下のような方向性で統一されているように見える。(もちろん例外はいる。)

  • 反ワクチン

  • マスクは無意味か有害

  • 感染対策は無駄

  • コロナはただの風邪

で、『自分の頭で考えて』とか言ってたりするのだが、私からすればまったく自分の頭で考えているようには見えない。単純に時間が足りないからこんなに手広く出来るはずがないというのはあるが、大体そういう人たちは結論が決まっていて精査せずに情報を集めて拡散してるだけっぽいからという理由が大きい。

たとえば、ちょっと前に宮沢孝幸氏がワクチンの効果(救った命もある)に言及した際それだけで『あっち側』とか言っている。その論拠も見ずに限定的な効果の可能性だけで否定している。そういうのは思考停止というのであって自分の頭で考えることの真逆だろう。

そのような人たちが自信満々で他者を侮蔑・否定するのは、自分たちがカルト教団と同じような存在(ある種の思考を認めない)になっているかもしれないという客観的な視点を持ってないからこそであろうか。

ちなみに、そのような姿勢は必ずしも反ワクチンの特徴ではなく、ワクチン、マスク激推しの人でも同じような傾向はあると思うが、私が見ている範囲内の印象としてまだ品位はあるし議論は出来るような気がする。なんとなく。


◆自分の頭で考えるということ

『自分の頭で考える』ということは研究者的な方法論を指すのではないかと思っている。自由な思考、他者へ説明可能な理論、推論、実証、議論とか。現実に職業的研究者である必要はなく姿勢と方法論が研究者的であれば自分の頭で考える人と私は認めたい。『あなたの自分の頭で考える度は…85%!やったね!』とか勝手に。しないけど。

特に自由な思考は大切だ。たとえばシェディングについて『ない』という観点で考えてみることは『ある』と証明するために有益だ。私は実際そのような記事を書こうとして長くなったので『化学物質過敏症』と『スピリチュアル』にわけたが、結局シェディングがあるのならその理論は不完全になるはずだし、不完全でないにせよ『条件においては無い』という仮説を提示できるならやはり有益である。

そのような意味で『マスクは効果が無いか有害』という情報を私は積極的にチェックしているが、だいたいがタイトル詐欺のクソ記事引用だったりとっくに否定された誤った理屈だったりする。

自分の頭で考える人にとって反証はとても興味深いものだろう。私はマスクの効果について『アリ寄り』のスタンスだが『色々と考えた結果マスクの効果はまったくなかった』という結論になる可能性を否定しない。だから論文等を読みこんだりして理論に基づき効果無しと冷静に情報発信している人は好きだ。まだそのような人に出会っていないが。


◆おわりに

結局のところ、自分の頭で考えるとしても知識や経験がないと推論の質は低いしそこから導き出された答えなんて直観と変わらない。最近私はシェディングについてそのような試みをしたが『ガチ素人』などと言い訳しながら『論文が出てくるのを期待したいですね!』とお茶を濁している。自分の頭で考えられる範囲なんてたかが知れているという証左である。

ちなみに、無知なりに論文を読んでみたり精査を試みたりすることは自らが謙虚でいるためにも良い経験となるのでオススメしたい。如何に自分が何も知らないかを痛感できるからだ。そのような経験を経たなら『自分の頭で考えている』なんて簡単には言えなくなる。

当然のことながら論文や公式情報を信用しろということではなく逆である。提示された情報の方法論の強みと限界(この言い回しは論文内でよく目にする)を認識し批判的に思考できるようになったとき、その結果である他人の頭を借りながら自分の頭で考える試みが可能になってくるのだ。自分の頭で考えることは容易ではない。私はそう考えている。

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