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「思想が強い」人たちと、弱いわたし

最近「思想が強い」という表現が私の中できている。マイブームである。

一見すると悪口に聞こえるかもしれないが、私はどちらかといえばこれを褒め言葉として使っている。ただもちろん本人に「思想が強いね」ということはない、そんなこと言ったら嫌われるのは目に見えている。

たぶん「思想が強い」人の一般的なイメージは、政治に対してTwitterで批判をつらつらと書いたり反ワクチンだったり一風変わった宗教を信仰していたりするんだと思う。もしかしたらヴィーガンとかフェミニストの人たちもその括りにされているかもしれない。

わたしにとってはそういう意味の「思想が強い」ももちろんありつつ、もっと広く何かを日頃から考えていたりそれを難しい言葉にして話したりできる人が「思想が強い」のである。愛とか自分という存在とか、はたまた人間関係とか、哲学に近いけどそこまでには及ばないようなことを日々頭に置いている人たちに対しての感情だ。

友達AはよくTwitterでサークルや人間関係の本質を突くようなことを言う。Bは電車の中でふと思いついたという愛と好きの自分なりの定義の違いを教えてくれた。CはTwitterの縮小垢で短歌や文学の言葉をRTしている。3人のタイプはてんでばらばらだけど、私にとっては皆「思想が強い」。

正直なところ、彼らに対して「思想が強い」と言うのは半分憧れであり、半分は線引きみたいなところがある。わたしがそういう人間とか愛とかについて考えようと思ってもあまり思い浮かばないし、人に考えを聞いたらそれに納得してしまう。考え事が苦手でじっくり自分と向き合えない。その作業ができることへの羨望と、わたしにはできないことをやる人たちへの明確な「違う」という意識が「思想が強い」にはある。

もっと色々なことを深く考えられるようになりたいし、端的な言葉で人を刺したいし、自分なりの愛の定義を見つけたいし、と思うからnoteを書いてみたりTwitterの名言集botを覗いてみたり意味深なツイートを下書きに溜めたりするけど、やっぱり上手くいかない。これはわたしの思想ではなく、ただの真似事だ。痛い。

でも深夜に思い悩んだり人間関係のどツボに嵌っている周囲の人を見ると、何も考えられなくて寝たら忘れる、楽しいことだけしていられる自分もいいかもしれない、とも思う。自分を愛せるのが一番だ。

結局自分の思想を強められることもなく、今日も友達の思想をSNSやおしゃべりから垣間見ては「強いなぁ」と思うだけの毎日を送るのだろう。


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