学生のうちに経験してよかったこと
1 演劇
自分は声を出すことを極めて恐れていた。
なぜかというと、声変わりの時期に3年間ずっと声が異常で、コンプレックスだったのだ。
「声大丈夫?」
そんな風に心配されるたび、とてもつらかった。笑われることも多かった。
そんな背景のある自分が、敢えて演劇を部活でやり始めた(その頃には声が落ち着いていた)。
「そういうイメージなかった」
と親から言われた。
演劇経験者なら誰でもやったことがあるであろう『あめんぼの歌』から『外郎売り』まで、練習はどれも人の第二印象くらい重要な声や話し方、遠くへの声の響かせ方を向上させる良い経験になったし、本番にトラブルは付き物だがアドリブで回避する能力も育った。
舞台に立つことも怖くなくなった。
おかげかプレゼンでは毎回賞を取れた。
「速度を落とせ」
「もっと間を取れ」
顧問の先生方には随分厳しく指導された。
大学生になって、いろいろな人から「声が良い」「滑舌が良い」「聞き取りやすい」などという評価を得ることが多くなった。
最初は本当か?と信じることが出来なかった。だけど今となっては、自分の苦手や恐怖に向き合って克服した証なのだと思って、感慨深く思う。
2 ヒッチハイク
大学1回生の時に、旅先でヒッチハイクせざるを得なくなった。
やってみて分かったけど、走っている車は止まってくれないのだ。
しかも夜の田舎。逆の立場になって考えてみれば確かに止まらないと思う。
そこで近くのコンビニの駐車場に行って、勇気を出して止まっている車に声をかけた。
「すみません、○○(隣県の町)の方面に行かれませんか?」
緊張する。どんな反応されるんだろう。
「○○のどこ?」
「○○○○という場所です」
「いいですよ、乗って」
初めてだったから、こんなあっさりとは思わず、拍子抜けしたけど、本当に有難かった。
なんと、ちょうどその町から来たのだという。
「いくつ?」
「18です」
「うちの息子と同じね」
運転していたのは、声をかけたお母さんの息子さんだった。いろいろな話をした。お母さんは地元の役所の職員だった。
ちなみに自分からヒッチハイクしたのはこの1回だけど、この後にも、関わった地元のおじちゃんたちが「乗っていきなよ」と言ってくださるので、似たようなことは何度もあった。
ヒッチハイクは人にお世話になりに行くというか、迷惑をかけにいくことだから、推奨されることでないだろうけど、大学生がこういう体験が許される最後のチャンスだと思うので、やってみるのも悪くないかもしれない。
少なくとも、自分の世界だけで完結した、地元の方と関わりを持たない旅はとても勿体なく感じる。
3 長距離走
高校には『陸上競技大会』という陸上専門の行事があった。
自分は中長距離が得意種目だったので、毎年1500mを選んでいた。
しかしうちはスポーツ強豪校……陸部で本業でやっている人たちからサッカー部まで、ゴリゴリの人たちがゴリゴリぶつかり合う恐ろしい種目なのだ。
毎年一緒に1500mをやっていたテニス部の友人が、彼が去年最下位になってしまい(中学で陸部の長距離だったのに)、
「俺もう今年は1500やめようと思うんだよね。心が折れた」
と言って選ばず、心細くもなった。
しかも、1500は上位レースと下位レースに分かれるのだが、ちょうど自分より上が上位レースに線引きされてしまった。
つまり、順当なタイムで走れば自分が最下位になるということだ。
その回の順位は正確に分からない。順当に最下位だったかもしれないし、後ろがいたかもしれない。必死だったので。全体的にガチすぎてゴールしたらみんな芝生に倒れ込んでたしな(自分も)。
ただ、これは本当に良い経験になったと思う。
運動部からもクネクネと逃げ続けてきて、ガチで戦った経験が無い自分にとって、絶対負けたくないという気持ちになってゴリゴリの人々の中でやったのは、意義があった。
あとマラソン大会(7km走)もあったけど、こちらも似た世界だった。
高2の回でペース配分ミスって失速し、途中、陸部のサイクリング仲間に抜かされて「ファイト」と声をかけてきて、その後全く差が埋まらなかったのが悔しかった。
もちろん順位でいえば全体の上位にいるんだけど、次々と抜かされていく恐怖。もう駄目だと思った。普通に運動部をやっていたら日常的に感じる世界なのだろうか。
それから10年が経って27歳になった今でも、走ると体が覚えているからなんかすごく懐かしい気持ちになる。
4 海外生活
韓国時代と呼んでいる。
大学生活の目標の一つに海外留学があったので実行した。
その良さはやはり、度胸がつくことだと思う。
日本語ではない言語で会話するのは緊張するけど、不思議なことに、生きていくには単語を知らなかろうが意思疎通しないといけないから、本番は練習の150%くらいの実力が発揮できるものだ。
会話は理屈ではなく勢いだと思った。
韓国人以外にも外国人留学生もたくさんいたから、彼らと関わるのも楽しかった。
インドネシア人、マレーシア人、フィリピン人、タイ人、アメリカ人、ブラジル人、フランス人、イタリア人、ルーマニア人、フィンランド人……彼らとは韓国語より英語で話した方が互いに楽だからそうしていた。
日本では触れる機会のない世界標準?のノリや挨拶の作法を学べたのも良かった。
東アジア人には共通の教養として三国志ネタが通じて漢字文化圏の偉大さを感じた。
日本という国、日本人という民族を相対化して視るきっかけにもなった。
しかし、基本的には日本人とばかり一緒に過ごしていたから良くなかった(駄目な例)。
講義で分からないところとかスマホで録音したりしていた。
ノートは基本的に日本語で取っていた。そういうことしてると、脳内でいま何語で考えていたのか分からなくなってくる。混ざる。
見るもの全てが初めて知るものばかり。
最初は確かにホームシックにもなったけど、一度染まってしまえば、日本食を食べたいとか思わなくなるし、一生この国でもいいやとか思う。
そんな刺激のある経験を人生に必要ではないだろうか。
5 登山
「人生で一番美味しかった食事は?」
と聞かれたら、インスタント味噌汁を挙げたい。登山中の何日目かに標高2000mの森の中で食べたものだった。
正確には、コッヘル(鍋)で炊いたインスタントの炊き込みご飯と、スパムの缶詰という「「豪華」」なラインナップだった。
これでも豪華な方ですよ。乾パン+あんこみたいな時もあるので。
部活としてやっていた登山だったけど『ゆるキャン△』のような楽しいレジャーではなく、実際は自衛隊と化していた。
一人当たり20kg近くにもなる水や食料その他を分担して背負い、テントの中は狭いので寝返りできないくらい肩寄せ合って寝るし、朝は3時起きだし、風呂も入れないし……。
部員が体を悪くした時は、その分の荷物は体力の残ってる部員で分担する。
なかなか限界だ。
でも縦走の数日目にもなると、3000m近くまで標高が上がれば見渡す限りの雲海……!
夜は見たことも無いような数の星空……!
数秒に一回の流れ星……!
この世のものとは思えない絶景に、言葉が出なくなる。
6 バンド
韓国時代にやっていた活動。
部活で軽音とか吹部だったとかではないので未経験者だったけどなかなか面白かった。自分がやっていたのはある楽器で、小さい頃から嗜んでいたものだった。
しかしやってみて気づいたのは、バンドを支配する主役はボーカルとばかり思っていたけど、実際は心臓はドラムだった。
特に自分はリズム感に自信が無いので、なおさらドラムを常に意識していた。ドラムが自分の一番仲の良い人(しかも日本人)だったから、息が合わせやすいというか安心感あった。
ある時、自分のソロ部分があったけど、まさかの盛大にミスってしまい頭の中が真っ白になった。ちなみに本番で。
人生一の黒歴史回となってしまったトラウマ回──。
本番なんて無限回やって慣れているはずなのに、事故は突然やってくる。恐ろしいね。
ここで学んだことは、楽しいメンタルでやることの大事さだった。
どのパートも、楽しくやってない時は見てる人にはバレるらしい。
7 政治活動
大学生の時に党で政治活動をやったのは、日本人として、国を愛した証を立てたかったためだった(もちろん○○党だけが愛国政党ではないけど、自分は○○党を一番支持しているので)(いきなり思想が強い回だな)。
地元の議員さんの遊説の時には、そのスタッフとしてビラ配りをした。
学生たちで自らマイクを持って街頭演説したことも何度もある。
結構怖い出来事もある。幸いにも自分の時には無かったけど、他の人がマイク持ってる時に変な人がワーワー絡んできて迷惑だったことも。
特に外交・安全保障が自分の訴えたい分野だったから重点を置いていた。そのための勉強会にも参加したりしていた。
党本部や議員会館に行ったりしていろんな方に会ったりできたのは面白かった。
一大学生がここにいて良いのだろうかというようなパーティにも入れたりして、有名人がたくさんいてすごかった(小並感)。
安倍さんには会えなかったのが心残り……。
地元の議員さんの飲み会とかだと、参加者が地元の小企業の社長みたいな人ばかりで、なるほどこういう風に政治が動くのかと勉強になる。
今年、ゲーム仲間で政治家志望の大学1回生が、党に入って同じようにマイク持って街頭に出てるツイートをしていて、応援したくなった。
8 YouTube投稿
YouTubeを見ていると、
「自分だったらこうするのになぁ」
と思うことが多くて、それなら自分で作ってみるかとなって制作してみたことがある。
初の動画は8万回再生まで伸び、手ごたえを感じて、それ以来、投稿頻度は高くないけれど時々作品を投稿するようになった。
「自分の見たい作品を作る」コンセプトでやっているけど、でもやっぱり再生回数が伸びたら嬉しい。
それにコメントでも、視聴者が面白いと言ってくれたり、考察したりしてくれると嬉しいし、多くの人に自分の作品を見てもらえているという実感は、クリエイティブな趣味を持っている人間にとって最高なことだと思う。
チャンネル登録者数が4桁に到達すると収益化ができるので、それなりのお小遣い稼ぎにもなる。
初めて自分の作品がお金になったのを見たときは感動した。
もちろん時には批判のコメントや、低評価が押されることもあるけど、最初はすごく気にしていたけど最近は気にならなくなったし、というか視聴者は基本、そういうコメントから投稿者を守ってくれるからみんなありがとうって気持ちでいる。
9 転校
小学生の時に転校を経験した。
仲の良い友達と別れなければいけなくなって落ち込んだ。
新しい学校は田舎の学校だった。
それまでは都会的というか、例えばオタク仲間がいたし、それなりの育ちの良さもあった土地柄だったけど、転校してからはそれと真逆だった。
カルチャーショックだった。
鉄道が好きとかバレたら死ぬと思って隠していたし、いつの間にか興味も無くなった。
そんなよわよわオタクである自分だったが、ヤンキーが多く、力がものを言う野蛮だけど素朴な世界、自分はそういう風土に染まったわけではないけど大きな影響を受けた。
今の自分の視点や考え方は、この経験なしには存在していなかったということは確かだと思う。
真逆の世界を見て、自分に多様性が育ったと思う。様々なタイプの人(都会のオタクから田舎のヤンキーまで、裕福な育ちの子から貧困家庭の子まで)への対応力の幅が広がったと思うし、それはきれいな都会だけで育ってきたら見えない世界だったと思う。
10 自分で髪を切る
自分で髪を切ってみたいと思ってやってみたら、最初は苦戦していたけど慣れてきて、高校の時とかほとんど自分でやっていた。
最近になって高校の友達にそのことを伝えたら
「え、全然気づかなかった」
と言っていて安心した。
というか書いてて思い出したけど、高校の時にオタクが
「⚓の髪型が理想なんだよな」
と言ってきて、その時に実は自分で切ったと言った。そしたらオタクが真似して次から自分で切り始めていた。
そういうことをやっていたから、美容室に行く度、今でもやっぱり感動してしまう。
こんな難しい作業が、たったこれだけの時間で、しかも必ず成功して、面白い話してくれながら、この値段!?
散髪にかけるお金が無駄で嫌だとか言ってる人いるけど、自分はむしろ最高の「外注」だと思うのでした。
11 製品販売
自分で物を売る経験は学生のうちに一度はした方がいいなと思って、自分で製品を作って販売したことがある。
作ったものは主に教育系のカードゲーム。カレンダーなども。
物を作って売る大変さを大いに実感した。
アイディアを出すだけでは何も出来ない。原材料の価格調査、購入、ソフトでデザインする、印刷、サイトに載せる、サムネを工夫する、配送方法の調査・設定、SNSでの宣伝、包装材の購入、出荷作業……。
値段を設定する時も結構強気だった。
たった小さな箱に入る製品に1,750円をつけたりもした。
しかし、それでもちょっと売れるだけでは大赤字なのだ。
初めて売れた時は感動した。というか二度見した。
自分の「商品」を買ってくれる人がいるという事実。
そして「素敵な商品でした」とコメントまでつけていただいて励みになった。
大変さと割に合わなさを実感して本格的にはやらなかったけど、良い経験になった。
12 Minecraft
Minecraftにはまって、SNSに投稿していたら、参加したいと言う人が集まってきて、やがて参加者が10人を超す企画になった。
その企画はシミュレーションをコンセプトとしていた。
ある場所を舞台に、それぞれが国を経営して、互いに貿易とかしながら発展させるのだ。
そのために、通貨を導入したり、商売ができる地区を制定したりして工夫した。
運営の仕事も各プレイヤーに割り振って、各々が主体的に動けるようにした。
やってほしいことには補助金を導入したり、各プレイヤーの交流のためにイベントを開催したりして、クリエイティブに何でもできた。
興味深いことに、シミュレーションがコンセプトなだけにインフレが起きたりもした。
そのため税金を取ったり、金本位制のようなシステムを廃止したり、通貨発行権を持たせたり、工夫した。
効果があった政策もあれば、無かったものもある。
その時の企画は今でもかつての参加者が
「面白い企画だった。またやりたい」
と言ってくれて有難いと思う。実際、主催者としても伝説級に面白くてわくわくした。
13 他の家にお邪魔する
東北のある小さな無人駅に着くと、お父さんが車で待っていてくださっていた。
「久しぶりだね。家は駅の近くなんだけどね、大きい荷物があるかと思って」
大きいリュック1つでなんか申し訳なかった。
家に着くと、お父さんが
「お兄ちゃん来たよ~」
とご家族に言い、リビングでくつろぐように言われた。リビングには少し年下の男の子がいて、挨拶を済ませた。
「何年生ですか…?」
「高2です」
お母さんもいらっしゃった。前に聞いていた通り外国人の方なのだが、豪胆な性格で、温和なお父さんと良いコンビを成していた。
挨拶をして横浜から持ってきたお土産を渡そうとすると、気を遣わなくていいのに~と怒られた。
「夜ご飯食べた?」
「はい、仙台で(忘れた)を食べました」
「( )じゃ足りないよ~。ハンバーグ食べなさい。○○君も食べる?」
「うん」
そうしてお母さんはレトルトのハンバーグを出してくださった。遠慮しそうになってしまったが、美味しくいただいた。
「今日はどうやって来たの?」
お母さんが聞く。
「家を出たのは朝5時でした。横浜から電車を乗り継いで、東北に来たのは初めてなので、福島とか仙台で途中下車しながら、、すごく楽しかったです」
「うちの息子にもそうやって旅させてみたいなぁ。もっといろんな話聞かせてあげて」
お父さんが言った。
──と、迷惑にならないかすごく緊張したけど、友達や親戚の家でもない、ましてや遠い地方のよその家に泊めていただくのが新鮮で、特別なことはないけど温かくて平和な家族だったし、本当に忘れられない経験になった。
14 泊まりでサイクリング
これは数回しかないけど、直近の回で御殿場に行った。
地元からサイクリングロードを下り江ノ島へ行って、相模湾沿いに沿って進み、酒匂川に沿って南足柄市へ。
出発が遅かったこともあり、この時点で日没となった。予定では足柄峠を越えるルートだったが、暗くて道が読めず危険な可能性があるとして山北町を通るルートに変更となった。
ここからが疲労、交通量の多さ、暗闇、ゴールの見えない感じで限界だった。
心折れそうになった。
とはいえここから引き返すことは不可能ないので、キツすぎて泣きそうになりながら小山町を通って御殿場に到着した。
翌朝復路は足柄峠(標高900m)を登る。
─と思ったら崖崩れで道が無くなって工事中だという情報を得た。車両通行止め。結果的に昨日の判断は正しかったのだ。
計画が狂う。迂回して昨日と同じルートを戻るべきか、少し考える。
とりあえず峠道の麓に入ってみると、農家のおじいさんがいて、何か情報が無いか聞いてみることにした。
「こんにちは!この先の崖崩れの工事は徒歩でも通れないくらいでしょうか?」
「チャリなら通れんべ」
「そうですか!ありがとうございます!」
「気をつけて行けよー!」
追い返されたら900mまで上がった努力が水の泡だと恐れつつも、到着すると、砂利道が出来ていて舗装前の状態だった。
工事の方に徒歩で通っていいか聞くとOKで、自転車を担いで通らせてもらった。
15 子供ボランティア
自分にとって結構ショックだった。
子供の相手ができない=人間として終わってる、みたいに感じて、今思うと、そう思える時点でそれは才能だったのかもしれないが。
幸いにも、中学・高校生の時、地域のボランティア活動で小学生の相手をする機会には恵まれていた。
最初はガチで子供苦手だったけど、逃げちゃだめだと思って自分から積極的に募集に参加して頑張った。
しかしそのためには自分が変わらなくてはいけなかった。
自分が他者に壁を作っていたり、恐怖心から逃げ腰になっていたり、面倒くさいから表面的な対応だけしようとすると舐められるし、厳しく接すれば信頼関係は崩れる。
つまり自分自身も「クソガキ」の心を持たなくてはいけないのだった。
それに気づいたらもう苦手意識は消えた。
もちろんそれまでの過程には悔しいこともたくさんあったけど……。
大学生の時には、塾のバで、活発男子担当といえば私と評されるなど、その頃にはすっかり克服できていた。
ともに長い間地元で活動した同い年の陽キャは本当尊敬してる。一緒にキャンプの引率もした。自然に子供と関われてまとめあげられて上の人との折衝も上手くてすごいなあと思った。
対立した時もあったけど、人間できてるなあというか、やっぱ陽キャパワーすげえとなった。
結局、頭いいとかそういうことよりも、子供を育てる能力でしか人間の社会的価値なんて評価できないと思った。だからそういうことが得意な人は尊敬する。
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