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『君の言葉がわかりたい』を通して伝えたいこと

自分の作品の意図を未完のうちから書き記して公開するなど、作家を生業とする人からすれば、聖域侵犯にも値しそうだが、私はいつ死ぬかもわからないか弱い生き物なので、忘れないうちに記しておく。


私は「人と人とのやりとりの手間を惜しまない存在を、架空のキャラクターでもいいので残したい」と思い、この物語を書いている。

このプロジェクトは、「自分の物語を実写化したい」が軸だ。
なので、物語はいかようにも変えられる。
私は刑事ドラマが好きで、推理小説が書いてみたかったので、レモーノとミエルは、パンケーキ屋を営む町のお困り事解決バディになる予定だった。

しかし、イラスト生成AIの誕生を嘆く絵描きの人々を見ているうちに、文章生成AIの存在が気になるようになってきた。
機械翻訳や文章生成AIを過信する人への疑問ゆえなのだが、他人がどう生きようと私の知ったところではない。
ただ「頑張って相手の言葉や行動を覚えて、相手の傍にいよう(自分は危険な存在ではないと思われよう)とする人間」を描きたいと思っている。
物事に手間をかける人の姿は、ただ一言に、愛しいのだ。

ここ三十年、迅速であること、効率がいいこと、機械化されること、人が苦労しないで済むことが良いように語られてきた。
私も便利な道具に日々助けられているし、開発してきた人々の想いを踏みにじる真似は避けたい。
だが、道具や他人に任せるということは、常に自分の力は育たなくなるということとセットになる。
実践し、失敗し、分析し、再試行することが、個人の成長にはどうしても必要だ。
自分の力はなくてもいいという人々は、有能な人や便利な道具に頼って生きていくといい。

俺は、機械が物語を書くなんて、つまんねー世界だな、と嘆くだけだ。

それはそうだ。
俺が小説を読むのは、作家の思念と命を吸いに吸って、妖物と化したそれと戯れたいからだ。
機械の思念は、純度が低すぎる。
新聞と同じ、「人の役に立つ」の思念に統合されて、たくさんの人間が書いているものなので、情報の域でしかないのだ。
ぐちゃぐちゃのまま吐き出されることもないだろう。
親に我儘を通そうと、みっともなく地面に大の字になって暴れ回る子どものような姿で「こんなつまらないもの誰が読むんだ」とか、機械は言わないのだ。
「読んで笑ってください」と言えば済むことを、へそを曲げ、口をへの字に折り、原稿用紙をくしゃくしゃにし、布団の中で丸くなる、そんな愛しさが機械にはないのだ。

「機械だって愛しいです!」と言うのは、開発者だから言えることだ。
開発にかけた手間や開発に手間をかけている人が愛しいのだ。
私は開発に携わっていないので、平気で「機械が書いた小説は読みたかないな」と言えるのだ。
手間をかけていない人間の放つ「可愛い」が癪に障るのと同じだ。

何が言いたいのかよくわからなくなってきたが、最後に無理やりまとめると、『君の言葉がわかりたい』は「自分の書いた物語を実写化したい」と「人と人との会話に手間を惜しまない存在を残したい」の二軸で成り立っている。
「人の役に立つ」や「人に価値を与える」というものを、私は目指していない。

レモーノとミエルの物語は、ただ在るだけでいいからだ。

ボーイズラブに見えるかもわからないが、私はラブロマンスというより、架空のドキュメンタリーとして描いているつもりだ。
ボーイズラブと呼ばない理由も、第六章の通りである。
興味がある人は、ぜひ読んで、「人と人とが会話をする」とは何かを再考していただきたい。
「好かれるために」「認められるために」に囚われていないだろうか?
そもそも、何かのために頑張る必要もなく、存在するとは素晴らしいことである。

有能な機械と厳しすぎる倫理観の前に、風前の灯火と化した、人と人とのやりとりの苦楽を残しておく。

ちなみに、まだ完成はしていないことだけはご容赦いただきたい。



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