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変に大人ぶるのはもうやめたズラ

完全なるビジネスシーンだと流石に頑張ってスイッチ入れるけど、たとえばお店の予約を取るときの電話のやりとり、ジムとか美容院でのコミュニケーション、飲み屋で知らない人と話すとき。数年前までは、大人とはこういう声のトーン、こういう話し方で、当たり障りのない表現でその場をやり過ごすものだ、といういわば強迫観念のようなものが頭にあって(誰に言われたわけでもないのにね)、なんとか自分も大人の仲間入りをしたくて必死にまねっこしている自覚があった。子供のときに見た、職員室内で先生同士が話しているあの大人の余裕ぶった口ぶりや振る舞いを私だってやりたい、大人の中に溶け込みたい、と思ってた。でもそれを実践しようとする度に、どうしても自分が自分じゃないような違和感もあって、なんだか人と話している実感がどんどん薄れていって、気づけば出来るだけそうなり得る状況やコミュニティを避けていくようになってしまいました。

振り返るとこの数年間で私は、話し方がどれだけ大人でも実はなんにも考えてない、しょうもない見て呉れだけの大人や、逆にぶっきらぼうな表現だったり不思議な話し方をするけど、この人は人生を何回やっているんだろうというふうに思う大人、どちらも出会う機会が多くあったように思う。結局、上辺だけでは分からないのだ、という、至極当然の答えに辿り着いたあたりから、私ももういいやとなりはじめた気がします。私の場合は特に声のトーンがどうしても上げられない(ベロベロの時はイケるけど)というのがあって、そのせいで悪目立ちしたり変に思われたりしないように、無理やりテンションを上げるとか、私は女優よ精神で、その場限りの「明るい話し方」をインストールしたりしてきた。でももうやめた。やめたってか、無理しなくなった。トーンが低くてもテンションが低いわけではないし、怒ってるわけでも悲しいわけでもない。愛想だけで言えばむしろいいほうだし(多分)、実際に「話してみれば意外と明るい」などという謎の判定を貰うことも少なくなく、その場では突っ込みつつも正直自分でもそう思う。

そりゃあ、他人を嫌な気持ちにさせるレベルの態度をしてるなら論外だけど、よく考えれば仕事とかそういうシーン以外で、よく知らない人に変に勘違いされて私が損したり周りに迷惑かけちゃうことって大して無くね?ていうかそのくらいで私に悪印象持っちゃう視野せま人間のことは放っておけば良くね?という特大開き直りをキメてから、かなり生きやすくなった感じがしております。だってそんなちょっとした会話とか雰囲気でその人のことわからないし、分かってほしいとも全く思わないし。分かるやつだけ分かればいいっていう類のやや強気な思想とも少し違くて、どこか「万人から好かれたい精神」から解き放たれた感じというか。きっと話せば分かってくれるけど、今は別にそこに労力使わなくていいかなー、みたいなノリというか。他人をシャットアウトしてるわけではないんですけどね、うーん、なんか表現が難しいな。

文章の書き方とかも少し似ているような気がして、洗練された綺麗な文章を本当は書きたいけど、そもそも私はそんな人間じゃないし、このnoteなんかは特に、お上品モードに転生するにはとっくに手遅れなのだとたかを括った末の諦めスタイルでやってるけど実は自分らしくて結構気に入ってたりするし、ラップだって同じで、初めはいろんな人の真似から入って背伸びしたリリックも色々書いてみたりしたけど、自分のスタイルが見えてきてからが本当に楽しくなった。どれもある意味開き直り、よく言えばきっと自分のことが分かるようになるタイミングがどこかにあって、それに応じて周りのひとも個性として見てくれるようになる、というように思います。こんなことをポジティブに思えるのは、やっぱりいろんな人に出会っていろんな考え方に触れてきたからこそで、じゃあこれからもっとたくさんの人の価値観に触れられるって考えたら、もしかしたらこの人生isオモロイかも・・とか思えてきたりする。たまに。たまにね。

まー、それぞれ事情もあるし、簡単に無理しなくていいよなんて言えた身分じゃないんですけど、無理してる自分にもし気付いてるんだったら、楽なほうに持っていってみたら吉な場合も結構あるからオススメしちゃう。アレ、どうしよう、終わり方がわからない。オチをつけるのが下手すぎる、情けない、悲しい、、サヨナラ、、、 (終)

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