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そりゃ器用に生きたいけど

人間の好き嫌いが激しい人とそうじゃない人。はっきり物を言う人と溜め込む人。シニカルな笑いを好む人と平和でやさしい空間を好む人。並べてみると対になっているようにも見えるし、状況によっては「あのひとって性格いいよね/悪いよね」と判断するには十分な基準にも感じられる。

でも私はこういう感覚の違い(根拠のない差別・偏見は除いて)は基本的に「個性」の範疇にあり、どちらかがどちらかを牽制したり、軽蔑したり、矯正しようとするのは違くないか?と思うのです。そもそも性格良いとか悪いとかいう棲み分けって時にしっくり来ないというか、作り上げられた「性格いい奴」と「性格悪い奴」の解像度があまりにも低かったり一貫性がないので、その二つのカテゴリーじゃ流石にむりだろと思うことが世の中には多すぎる。

例えば性格的に苦手な人間に対する苦手意識を克服しろ、と言われても、なかなか難しいものがある。苦手なものは、苦手。そして同時にそれを理解できない層も存在する。理解できないものは、できない。それに対してお互いが分かり合うまでぶつかり続けようってのは、少し無理のある話だと思いませんか。もちろん大切だと思う相手のことは出来るだけ理解したいし、そのための努力もする。ハナからその努力を放棄することだけはしたくないし、そんなことをしていたらマジで人間世界で生きられないというか生きている甲斐がないので。それでもやはり、「仕方がない」ことはどうしても世の中にあるのだ、と私は思う。異なる価値観がどうしても受け入れられないなら受け入れられないという事実をまずきちんと受け入れる。それでいて自分が正しいと信じ込まない。でもその感覚の違いによってしんどい思いをしなくてはいけないなんてのは本来おかしな話ですから、関わらなくてよければそう出来るのがベスト、難しければ適切な距離感を保つこと。今の私にとってこれが最もヘルシーで理想的な生き方だと考えています。まあ、実際は人間相手なのでそう簡単にはいかないこともたくさんあるけどね。

もちろん、実際に他人に意地悪をしたり、嫌な態度を取ったり、悪意のある発言をぶつけることは論外。でもそれぞれが持っている優しい気持ち、愛情、怒り、悲しみ、その他あらゆる感情は生きている限り否応なく生まれるもので、それらを完全に無視することは出来ない(し、する必要もないと思う)。だから結局は自分のスタイルで発散したり伝えたり昇華したりしていくしかないんだけど、重要なのはその自分のスタイルが分かっているかどうかということで、それさえ分かっていればきっとある程度のことはなんとかなる、のに、どうしても人はその発散や昇華の方法を間違えたり、時に行き過ぎたり、反対に抱え込んでダメになったりする。

あー、何故人間はこんなにも愚かで、惨めで、どうしようもないのかって、最近のSNSを見てこの一週間くらいずっと感じていて。他人事じゃないな、やはり生きるのは簡単じゃないな、と久々に絶望しています。それでも、いとも簡単に器用に生きられる人生、それはそれでつまらないのかな。分からないけど、分からないなりに言葉にしていくことが私にとっての発散であり昇華であり、私の生活にはどうしても必要なのだと思う、それだけが分かっているだけで、きっと今は十分なのかもしれない。

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