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KISS Side-B

パソコンに向かい報告書を作っていると胸ポケットの携帯から振動を感じた。
手を止めて携帯を取り出し画面を開く。
あいつからのメールだった。
入社同期のあいつと知り合ってもうすぐ7年。

「私だって忙しいんだよ!」
「美味しいもの食べたいな♪」
彼女からの返事に思わず笑みが溢れる。

最初は同期入社の仲間として出会った彼女。
最初の頃は何かと理由をつけて集まっていた同期達も、時間の経過と共にメンバーも少しずつ減っていき今でも定期的に会っているのは彼女だけ。
そしてただの仲間として始まった彼女との関係に、いつの間にか微妙な空気を感じるようになっている今日この頃。

いつからか分からないけど、僕は彼女から向けられる好意に気付いていた。
いや、気付いていたのは僕だけではなかった。
ここ数年続く同期の結婚ラッシュ。
2次会の帰り道に既婚者の同期から「あいつと結婚しちゃえばいいのに」と言われた事も何度かあった。

彼女の事を恋人や結婚相手として考えた事が無いわけではなかった。
いやむしろ、彼女と2人で会う機会が増えるにつれて考える事が増えた。
恋人同士の関係になったら、その先にあるのは結婚か別れ。
30歳を目前に控えていても今の僕にとって結婚は現実味がなく、同じ会社で働く彼女を相手に僕は少し慎重になっていた。

彼女の好意に気付いているのに気付かないふりをして、僕は居心地の良いこの付かず離れずの関係に甘えているのかもしれない。

でもそんな彼女への感情に変化が生まれたのは、皮肉にもあの人との関係が始まった事がきっかけだった。

欲の海に飲み込まれ、そのうねりの中でもがき、あの人と2人でその波の間を漂う。
疲れ果て眠るあの人の寝顔を見ても、満たされるどころか僕はいつも不安だった。
求め合い肌を重ねても、目が覚めたら隣で眠っているはずのあの人がいない…
そんな不安を抱える毎日。

一緒にいてもあの人は掴みどころがなく、
何を考えているのか?
僕と一緒にいて嬉しいのか?
僕に何を求めているのか?

考えても答えが出なくて苦しい。
欲の海の底に沈んでしまった僕は息ができない。
青く暗い海の底から見上げても空は見えない…

考え続けるうちに僕は自分自身の気持ちも分からなくなっていた。
最初は「僕だったら寂しい思いはさせない」
あの人の事を愛おしいと思っていたはずだった。
でも、あの人と会えない時間に思い出すのは、あの人の透き通るような白い肌、シーツに広がる長くて黒い髪、切ない声。

今頃あの人が先輩と…
そう思うと僕は居ても立っても居られなくて頭を掻きむしる。

これってあの人の事を好きって言えるのか?
ただ欲に溺れているだけじゃないのか?
それとも、これ以上好きになってしまうのが怖くて欲に溺れているだけと思い込もうとしているのか?
自問自答を繰り返す。

自分の中にこんなドロドロした感情があるなんて知らなかった…
こんなの僕じゃない、僕らしくない。

自問自答を繰り返す日々が続き、僕はふと彼女に会いたくなった。

あの人との関係が始まってしばらくした頃に会った時の彼女を思い出す。
食事をしながら彼女の仕事の愚痴を聞いたり、同期の近況や噂話を肴にグラスを傾ける時間。
彼女と会っていると僕はいつもの自分を取り戻したような気がしていた。

だからあの日、あの人との未来のない関係に疲れ果てた僕はあの人への未練を吹っ切り、自分を取り戻す為に1ヶ月ぶりに彼女へ「久しぶりにメシでもどう?」と連絡した。

待ち合わせの店に現れた彼女はいつもと変わらない。
他愛もない事を嬉しそうに話し、一つ一つの料理を本当に美味しそうに食べる。
彼女の笑顔は本当に楽しそうで、僕の心が温かいもので満たされていく。
彼女と一緒にいると大きく息ができるような気がした。

食事が終わっても彼女と別れ難かった僕は、彼女をドライブに誘った。
行き先を告げずに走り出し無言のままの車内。気付くと柔らかい雨が降り出していた。
運転しながら助手席の彼女を時々こっそり盗み見る。
無言のままでも特に気にする様子もなく、夜のドライブを楽しんでいるように見える彼女。
僕は高台にある公園へハンドルを向けた。

平日夜の公園の駐車場は人気もなく、見下ろすと雨に濡れてキラキラ光る夜景が広がっている。途中寄ったコーヒーショップで買ったコーヒーを飲みながら、僕と彼女はただ黙って夜景を見ていた。
聞こえてくるのは雨音だけ。
お互いに黙っていても気まずさを感じない静かな車内。
隣にいる彼女の気配を感じながら僕は安らぎを感じていた。
もしかしたら僕が求めているのは、こういう時間かもしれない。
これからも彼女とずっと一緒にいる自分を想像してみる。
僕の隣にいる彼女の笑顔、そしてそれを見つめる僕…

「俺たち付き合ってみない?」
その言葉が口から出そうになったその時、彼女が手を滑らせてコーヒーを溢してしまった。
「あっ…」と慌てる彼女を見て、咄嗟にハンカチを取り出し胸元のコーヒーの染みを押さえようとすると、もう一度「あっ…」と動揺した彼女の声が聞こえる。
その声に顔を上げると彼女と目が合った。

彼女から目が逸らせない。
僕は彼女の瞳に吸い寄せられ自然に唇を重ねていた。
僕にはそうする事がとても自然な事に感じた。

でも唇を重ねた瞬間、僕の脳裏に浮かんだのはあの人の横顔と唇の感触だった。

どうして…
唇を離し僕はハンドルに顎を載せて黙って前を見つめる。

どうして…
彼女と一緒の未来へ一歩踏み出すつもりだったのに…
一歩踏み出したつもりだったのに、その瞬間僕が思い出したのはあの人の唇の感触だった。

こんなはずじゃなかった。
自分の身勝手さに呆れ、あの人から逃れられない自分の心が悲しくなる。

僕は動揺する自分の心を宥め、何とかいつもと同じ調子で「そろそろ帰ろっか?」と一言だけ言ってエンジンをかけた。
無言の車内…さっきまで感じていた安らぎや居心地の良さはどこかに消えてしまっていた。
聞こえてくる雨音が無言の気まずさを少しだけ埋めてくれる。

僕は込み上げてくる罪悪感と後悔を押し殺しながらハンドルを握り、彼女をマンションまで送り届けた。
「おやすみ、またね」
彼女はいつもと変わらない笑顔でマンションのエントランスに消えていった。

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