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美しく痩せたいのは誰のためだろう(4)
「痩せろ」
「脱毛しろ(毛を抜け)」
「頭の毛をはやせ」
「シミをとれ」
1日にこのメッセージを浴びない日はない
我輩の中でだんだんとボディイメージのはなしになってきた
鍼灸師はクソ真面目にやってると(?!)
「自然・あるがままのからだ」のボディイメージを抱くようになる(はず)
だんだんとからだというものが流れる雲や月や星や霧、もっといえばそのへんの石ころとだってかわらない、ただ同じ自然だ。
「天人合一」とか「気」なんて偉そうにいう必要はあんまりないと思う。
多分にシャーマニック部分もふくんだこの鍼灸術という伝統的な医療技術文化は、どうもからだという自然を大きく加工して都市をつくろうとはしないのだ。
「ほどほどに」という節度はあるものの西洋のようにものすごい外科医療技術が発展しなかった(火薬なんかは先にみつけているのに)
「痩せろ」
「脱毛しろ(毛を抜け)」
「毛をはやせ」
「シミをとれ」
ツルツルしたアンドロイドのようなボディイメージ
バケツをもって泥んこになって遊んでいた子供のころ、だんだんと
アスファルトやコンクリートでとても便利にキレイに安全になって車もたくさん通り豊かなになり、やがて消えてしまった亀やミミズのことに自分のこころはずっと傷ついていたんだと今は思う
「痩せろ」
「脱毛しろ(毛を抜け)」
「毛をはやせ」
「シミをとれ」
草や山や川を削ってアスファルトとコンクリートでキレイにしろといってくるのは
どうも「脳」じゃないかと
養老孟司さん本をよみながら最近よく考える。
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