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人間はなぜ考えてしまうのか


3日前か、先週くらいからぼんやりと考えていること。

なんだか落ち着かないのでここ最近の考えていることを書き出しておきます。

別に人に見せるまでもないメモ。のつもりだった。



「考えすぎるなよ」

悩んでいる人によく言われる言葉。
悩むと考える。
考えるのは決して悪いことではない、むしろいいことなんだけれど、普段からよく考える人は、それに比例するように悩みやすくて、悩むのは多分多くの人にとって疲れることだし、側から見れば落ち込んでいるようにも見える。落ち込むとは?何も考えず、その場の勢いみたいなもので生きている人や生き物は幸せそうに見える。本当にしあわせかどうかは、当人にしかわからないけれど、無駄なことを考えずに、物事の楽しいことやいい部分だけを享受することができたら、たしかに幸せになりやすいような気がする。



「考え方や見方が変わると楽になる」

これは事実だとは思うけども、それを変えるまでにはたくさんたくさん考えることが必要だったり、いろいろな人の意見を聞いたり、頭を使うことが多い。でも結果、あーそっか!となる瞬間は、なんで今までそんなに考えてしまったのだろうと思うほどだったりもする。考え方や見方を変えるのは決して簡単ではない。人によっては、頭では理解してもなかなか受け入れられないこともあるだろう。



「考えるのが好き」

隣の席の友人。いろいろな考え方や新しいものに出会って、自分の快適さや楽しさを最優先する生活に変えてから、毎日のようにしあわせそうに過ごしている人。その人の、毎日楽しそうな、しあわせそうな話を聞くのが私は好き。いろいろなことに取り組んでもいて、そういう考え事を楽しそうに話しながら、「あれもこれも考えることがあって忙しい!考えるのがすきなのよ!」と明るく言う。「考えることが好き」と前向きに発言する人に私は初めて出会って、新鮮だった。決して、「〜しなきゃ」とは言わない。全て好んでやっていること、考えていることだから。私だって、仕事をやめたばかりのころは、やりたいからやっている!と思っていたはずなのに、いつの間に、最近はずっと、「〜しなきゃ」に追われていて、おかしいなあ。かと言って、全てを「やりたくてやっている」に変換しきれないから不思議だ。義務なんて一つもないはずなのに。まあ、毎朝起きて行かなきゃいけない場所があるというのは義務だけども・・・・求めて行っているはずだけど、そもそも「毎朝起きる」というタスクが私には重い。
ところで、昔、私がよく悩んで不安になってグジグジしていたころ、当時たくさん話を聞いてもらったある人に、「考えるのが趣味なんだね」と言われ、私は猛反発した。だけど、考えてみると、自分で考えて考えて考え抜けないとモヤモヤし続けるので、考え抜いてすっきりするために考えている。要は、好きで考えてるんじゃねーよ!と反発していた私も、考えるのが好きだったのだ。今も、好きだぜ!とまでは言えないが、認めざるを得ない。



人の日記を読むこと。

人の日記を読むのは、自分とは全く異なる思考を知れるから面白い。特に知り合いの日記は、その人がどういう人かを知っている上で、別の観点・視点を得ることになるので尚更。表現も、思考も、全然違う。面白い。
以前に私が作った日記のzine、はじめは知り合いに配るだけで終わらそうと思ったけれど、文学フリマに出すことに決めて、3冊くらい、知らない人にも売れた。知り合いからの感想は時折聞くことができているけれど、知らない人は、私のあの日記を読んでどう思ったのだろう。zineにはアカウントも連絡先も載せていないので、ずっとわからないままだろう。それでもいい、儚いということが、私にとっては、あの日記に対して重要なことだと思っている。



生活の快適さとメンタルバランスの相関性

約10日間、ドミトリーで生活した。ドミトリーとは、宿の種類で、自分専用の空間はベッドのみ。前半は、作業する時間やタイミング、場所をみつけられず、焦ったが、後半は、宿のある土地にも少し慣れて、作業場所や時間の見つけ方が少しわかって、そんなに困ることはなかった。ただ、プリンターとか紙とか、そういう、今のわたしには時々必要になるものがすぐに使える環境ではないことは不便で、(プリンターは言えば借りられたそうなのだが、最終日に気づいた。)何日か実家に帰ったりして、意味あるんだかないんだか、という日々だった。最近熱が高まっているギターが手元にないのが不安だったけど、近くのスタジオにアコギごと借りることで解決した。総じて、通う距離がドアドア1時間以内で、よく出かける場所からも30分とかからず帰れる場所は、とても快適だった。それで、実家に帰ってきた時に、一番気になったのは、家の乱雑さ。空気も、時間も、モノも滞っている感じで、持って帰ってきたはずのやる気は一瞬でどこかへ消えた。実家は働いている人と、何も家事をしない人しかいないので、仕方のないことなのだが、その点、毎日清掃をしてくれる人のいる宿は快適だった。実家に戻った日の夜、ドライヤーがあまりにも買った当初より風量が弱く熱い風が出ることに気づいて、吸入口を掃除した。掃除をしようと持ち出した掃除機は、もう何ヶ月も前からバッテリーが弱くなっていて、1〜2分ともたずに充電が切れる。仕方なしに、綿棒で地道に掃除した。全然取れない。地道な掃除をしながら、考える。生活する空間に整理整頓、掃除が行き渡っていることがどんなに快適で、気持ちの余裕をうむのか。片付いていなくて、掃除をしようと思っても、その道具すら足りない状況は、どれだけ疲弊をうむのか。自分の身体も心も、考える時間を取ったり、周囲を片付ける時間を取ったりと、メンテナンスを怠らないことが、きっと生きやすさに繋がるのだろうな、という考えに至った。せめて、掃除機のバッテリーは早急に買おう、そう思いながら掃除を終えると、ドライヤーは蘇ったように、快適な温風を出し、髪の毛もいつもよりツヤツヤさらさらになった。



思考を吐き出す

吐き出す、という表現をされがちだけれど、別に吐き出すという表現をするまでの必要はない気がする。ただの生理現象なのではないか。
さっき風呂に浸かりながら考えたのだけど、思考するということ、もしかしたら人間の三大欲求に並ぶくらい必要なものではないか。考えたくても考えられない時、多くの人が、体にも心にも不調が現れるのではないか。食欲、睡眠欲、性欲、思考欲。意識してなかっただけで、全員に必須な行動なのでは。でも、三大欲求は、それを大好き!という人は多いけれど、思考することを大好き、という人は、先にあげた友人くらいか?いや、性欲だって、全員が大好きなわけではないし?
まあ、どうでもいいし、結論は求めてない。
無駄な時間を過ごすことこそ、人生だと、頭では思っているのに、どうして何でもかんでも意味や理由を探してしまうのだろうね。難しいこと考えないほうが、生きるのはきっと楽だと思うのだけれど。それでも、頭の働く人は、ずっと考え続けて、すごいなあと思う。ちなみに私は、考えることが時々嫌になるので、何にも考えないように自分から考えることをやめたり、別のアカウントで、意味のない擬音を発したりしています。擬音を発しているつもりが、最終的には考え事を、誰も聞いていないことをいいことに、たらたらたらたらと書き続けていることも多々ありますが。あ、この記事もそうですね。やりたいことはやるべきだし、書きたいことは書き出すべき。それが誰のためでなくてもいい。すべてはバランス。あと、メンテナンス大事。



書きたい記事が書ききれないまま。

これは何度も体感していて、できるだけ気をつけていることなのだが、書きたいと思ったことは、その時じゃないと書けない。えほんやするばんばんするかいしゃさん、行くと毎度のごとく、感じ入ったものを書きたくなる。先日の分は、あらかた書けているので、きっとそのうち公開できると思う。だけれどその前の分は、取り急ぎ箇条書きにしていたが、読み返して、内容は思い出せても、記事にまとめるまでの気持ちになかなかなれない。絶対書きたいと思っていたのにな。書くタイミングを逃して書けないまま、ということは、noteを使い始めたころから感じていたので、出来るだけ書くようにしているのだけれど・・・。個人的に書きたいだけだけど、内容的に、念のため先方に確認してから・・・とか思ってしまうから尚更かもしれない。
別に、物書きになろうと思っていなかったのに、ときどき、文章を依頼されることが出てきて、なんだか面白い。自分勝手に、思うがままのことを書いているのに、それを少しでも気に入ってくれる人が居たということか・・・。書き始めたころや、誰も見ていない場所で書いていた時は、だれか読む人がいるのだろうか、なんて思いながら書いていたのが懐かしい。どんな形でも、必要とされるコトがあるってありがたいね。
それで、最近というかしばらく前から考えていること。創作や、書き物をするためには、心身の余裕が必要ということ、以前から思っていたけれど、余裕がなくなって改めて実感している。心の余裕は以前と同じくらいでなぜかいつもないけれど、今は体の余裕がない。余裕がないことを理由にするのはすごくモヤモヤするし、自分にとっては言い訳にしか思えない。でも出来ないものは出来ないし、と諦められればいいんだけどな。心身の余裕をつくり、何かをつくる、考える意欲を保ち続ける・・・それも結局バランス。お金がなくても余裕は無くなるし、時間がなくても余裕はなくなる。自分にとって、ちょうどいい生活が見つかりますように。そういう状況・環境をつくる、整えるということ。ああ、これがきっと私の来年の目標です。



年末年始大嫌いな捻くれ者なので、1年の振り返りをする気なんてさらさらなかったのですが・・・気がむいたらちゃんと振り返りたいけれど、気が向かないかもしれないので。


leleとして、今年の始め、ひとりでカレンダーをつくったりしてましたけどあんまり知られず、DENMARKやUOUSAOをつくったころから、見てくださる方が増えて、出会いも増えて、今までの人生には全くといっていいほどなかった「つくる話をする友人」がたくさん増えました。びっくりです。人とつくる話をするってすごくたのしい。毎日のように、つくる話をして、つくることについて考える人生になるなんて、そんな日が訪れるなんて思ってもみなかった。過去の自分に是非教えてあげたいくらいです。同時に、「何かをつくる」それ自体は楽しさに負けず劣らず大変さが伴うことも身を以て知ることが出来ました。みんなその苦悩を乗り越えてつくっていること。最終的には、出来上がると楽しくて、だから続けたいと思っているのですが。

leleが何者なのか、これから何をしていくのかは、自分でもまだよくわかっていないのですが、とりあえずはきっと、zineをつくり続けたいと思っています。余裕のある限り・・・体力と意欲を維持しつづけたい。

こんなよくわからん私と、出会ってくれて、話してくれて、つくるを共感したり、応援してくれた方々。
2020年、ありがとうございました。
2021年もどうぞよろしくお願いします。
そして、あわよくば、是非私とも、何か楽しいことを一緒にやりましょう。

2021年も、ひっそりと、自分と誰かがわくわくするものをつくっていきたいな。


以上、最近の考え事でした。


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