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偏見と子ども時代

容姿の秀でた人を見かけると男女問わず、何も知らずに勝手で失礼だとは百も承知で、心の正直な部分では「いいなぁ」と思ってしまう。

近視ゆえ道ゆく人の顔の細かな造作まで判別がつかず、髪型や服装等でほとんどの人が美しく見えて、街中では歩くだけで心が忙しい。

このご時世ではあるものの、表現としての男女の特色(垣根は低くなったように思われるが)とそれらからぱっと見で男/女の判断をする時代遅れの癖は残っていて、
正確なところはわからないけれど、あの男の人/あの女の人は美しい、羨ましい、という思考が働く。


享受するメリットが具体的にわかる同性の方が羨ましいかと言えばそうでもなく、概ね男性の方が羨ましく感じがち。

程度は違うとはいえ身に覚えがある分、容姿に関する日々の努力(化粧やらなんやら)が具体的に想像されるためかというとそれだけではなく、
男性については羨ましいの更に後ろに「生きやすそう」という偏見がついてくる。

人を多く見かけるようになったのは都会に越してきてからなので、大人になって社会の仕組みを体感したからかと思っていたけれども、
つい最近、この偏見の根っこは幼い頃にあるようだと気づいた。

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きっかけは、一度だけ活動支援(有体に言えば寄付)をした団体から届いた年間報告。

ビジュアル的にも言葉的にもわかりやすくまとめられた報告書は、カジュアルで親しみやすく内容を伝える一方、
課題に包括的なアプローチをしていることがわかりにくく、統計データの裏付けももう少し欲しいという所で、色々惜しいなと思いつつ拝読。

特に統計について、何を分母としての記載なのかニュアンスが微妙なところがあって調べていたら(そもそも知識があればニュアンスに迷うことはなく、自身の勉強不足は否めない)、関連するWeb媒体の特集記事に行き着いた。

特集の最後にはコメント欄があって、ざっと目を通すと色々な立場の人がいるという当たり前の事実に突き当たる他、
身体的なことを除くジェンダー的な行き違い(男/女の方が〜、男/女も〜すべき…)が見受けられた。

心がざらつきつつも「(性別)だから〜/なのに〜」という構文を夜遅く頭の中で反復していて、ふと2つ思い出した。

1つ目は「女は〇〇しない」という思考の枠組み。

小さな頃、田舎ゆえ家の前の道路に毛虫が這っていた時、
姉と2人で木の枝でつんつん突いていたら、
隣近所のおばあさんから
「お母さんのお腹の中に大事なものを忘れてきたな」と言われたこと。

つまり、暗に「そういうことをするのは男の子だ(女の子はしない)」と言われたこと。

子どものいたずらを注意しただけでそんな意図はなかったのかもしれないが、自分の中で「自分の性別でやって良いこと/悪いこと」の区別ができてしまった。
そして、どうやら自分がやりたかったことを止められない存在(ここでは男の子)が羨ましく思われたようだった。


2つ目は「男だったら〇〇なのに」という思考の枠組み。

具体的なエピソードというより、ふと気づいた時からずっと頭の隅にあった「3人目は男が良かっただろうな」という推測。

3人姉妹の末っ子でかなり自由に育てていただいたものの、
古き良きの価値観が色濃い父方の実家から「また女か」と言われたり、周りから「(女だらけで)お父さんが可哀想」と言われたりした記憶、
また、両親の仲が微妙な時期を幼少期から何回か経験してきた記憶が結びついて、
次第に「男だったら認めてもらえた」という存在肯定願望に形を変えて、他者の望みから自分の望みになって残ってしまった。

加えて、母からは、長女として生まれ弟が生まれてからの「弟ばっかり」という思い出を何回か聞かされていた。
弟は〇〇してもらえたのに…は、自分も男だったら〇〇してもらえたはず、と形を変えて、性別への捻れた感情として残ってしまった。

母娘の2代に渡る感情のしこりが、今自身が抱く「男だったら」という思考の枠組みであるように思う。


・・・・・

こんな思考の枠組みが男の人の方が「生きやすい」と勝手な偏見として染み付いて、
容姿への羨ましさを糸口とした性別への羨ましさとして湧き上がっていたようだった。

元々は、社会人の自分の偏見に辟易しながら「幼い頃はこんな偏見なかっただろう」と思っていたのに、
むしろ子供時代に根があって子供の思考もストレートな分、残酷なものと思い知る。

根っこが分かったからといってこの偏見を取り除く術は思い当たらないけれど、
次の時代に生きるだろう今の子ども達がこんな思考の枠組みを持たないように、
せめて自分が外側で何を支持し肯定するかは精査しようと思う。

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