『アルジャーノンに花束を』
ダニエル・キイス 原作
菊池准 脚色

フェイという画家の人生を生きた2ヶ月間、
アーティストとしての私の人生について考えさせられる時間だった。

何のために、何故、誰のために、誰と、どのくらい、
どんな芸術をやっていきたいのか、
そもそも今それで生きていこうとしているきっかけはどこにあるのか、
私の0幕はどこにある?

今の私をシンプルな名称で肩書くとするならば、
舞台俳優、作曲家、ダンサー
の3つ。

まずこの時点で私は迷う訳です。

本当にこの3つなの?そしてこの順番なの?

演劇はそもそも自身のための行為であると言われてから、
表現者には「自分のしたいことをやりたい」という欲があるということを自覚した。

好きだから、っていう他人を介さないシンプルな理由。

私が今この3つを名乗っている理由は、この3つの枠に収まる仕事をしたいから、が正直な理由。
表現方法が曲であろうが踊りであろうが歌であろうが芝居であろうが、
私にとってはぶっちゃけなんでもいい。

いわゆる「芸事」みたいなことに入るものは、
私にとっては同じカテゴリー。

周囲から影響を受け、
自分の感覚と精神をもって咀嚼し、
自分の波動と肉体をもって出力すること。


アーティストとクリエイターという比較はよくされる。
その違いは思想の有無だと思う。
自ら湧き出る思想を表現するのがアーティスト、
誰かの思想をアートという形に落とし込むのがクリエイター。
この世界をどうしたい、ああしたい、というものがあるから
私は活動しているわけじゃないもんな…
作りたい世界観みたいなものも特にないし。
と思って、私は自分をアーティストではなくクリエイターと名乗っていた。


じゃあ、なんでそもそもクリエイターがやりたいのかって
自分の過去を遡った時、
物心ついた頃には音楽も踊ることもやっていたから、
が理由になってしまう。
母親が音楽の先生だったからか
3歳の頃にはピアノを始めていたし、
親戚のダンサーがくれたレオタードのおかげか
5歳の頃にバレエを始めていた。
多分そこに自立した私の意志はない。

私の行動原理は、
「やったことあるからやる」
なのかもしれない。

人生の中で長くやっていることをずっと続けている、それだけ。

そこから離れることを恐れて、
本当の意味での挑戦、をしていないのは自分自身なのかもしれない。


誰にも続けろと頼まれているわけでもない、
別にお金が理由で続ける仕事でもない、
それなのに、色んなものを投げ捨てて今ここにいるのは何故なのでしょう。

それっぽいことをやっているかっこよさへの憧れ、羨望?

いや、きっとただのカッコつけです。

仕事辞めてフリーのアーティストになりました!

ってなんかロックやん?


全てを辞めて、今からすっぱりとした、いわゆる社会にピタッと適合した人生に変えても良いのだよ?
いつだってその選択肢は残されているのだよ?

それでも
表現にしがみつくのは

何故なのでしょうね。


ただの、
ただの、

自分の欲張りなエゴ、です。


でもいいじゃない、

私の人生なので。

誰がなんと言おうと。



そういえば、無駄なことって今までしてきた?
って話をしていた時に、
「してきたように見えない」
って言われたけど
「これだけ芸事に身を置いてる時点で、全てが無駄なことだと思うけど笑」って今なら返答するなって思いました。


無駄だけどいいの。
無駄を楽しめるだけの余裕が私にあるということだし、
無駄でも続けたいと思えるほど私には大事にしたいものがあるし、
自分にとっては無駄なことも、
誰かの救いになったり
社会の中での小さな救いになったり
そういうことがあるかもしれないから。


そもそもね、ITの世界から抜け出そうって思った理由って
私にもし才能とかいうものがほんの少しでもあるとしたら、
テクノロジーじゃなくてアートに使いたいなって思ったから。

アートのためのテクノロジーなら私はやりたいと思う。

無駄なことを続けられるだけの社会の成熟と安寧を
求めているのかもしれません。


じゃあ、自分の人生の中での幸せはなんなんだろうね?

仕事という生きる上での業の次に、
一人間として死ぬまでの人生を考えた時、
また次の壁が降りかかってくるのだと思います。


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