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名もなき者の日記(にき)①

どんなことがあっても大体は眠れる私が、昨日は珍しく眠れなかった。

理由は、裁判の関係書類。これでもかというほど人格否定の反訴答弁書。深夜に読むものではない。

さて、この反訴答弁書の内容はともかく、眠れないといろんなことを思い出す。そう、子供のころから好きだった伯母のこと。

子供のころ、弟とバスと電車を乗り継いで約40分ほどの探検を楽しみながら伯母の家にお習字を習いに行った。当時、小学校の校則で子供たちだけで校区外に行くことが禁止だった。校則は守るべきもの!と考える母だけど、他市の伯母宅に行くのは寛容だった。

伯母は、厳しい母と違い優しかった。見たこともないお菓子を出してくれて大歓迎で、私は名ばかりのお習字を習うという、当時数少ないイベントを楽しんだ。

高校生になっても大人になっても私は、伯母の家に行くことが楽しみのひとつだった。

2000年の冬、弟が急死した。(このことについても別の日に書く予定)

スキー場で倒れひと言も交わさず逝ってしまった。弟の死後、実家に戻った日は冷たい雨が降っていた。

連絡があったのは土曜日。当時2000年対応のプログラム修正の仕事をしていた私は、徹夜明けの状態で実家に戻ろうと電車に乗った。

実家の最寄り駅で、母と叔母夫婦(母の妹)と出会った。母がとても小さく見えた。

長くなったけれど、ここからが本題。

母が、弟のことで混乱をしていて伯母に連絡をするのが遅れた。
私の家も伯母の家、叔母の家もごく普通の家。本家分家と言って変なこだわりがあるのは、伯母の夫である義伯父だけ。この人が、おかしい。

私の母も父も死ぬ思いで弟を迎えに行った立場なのに
「兄弟姉妹の一番年長の義伯父に最初に連絡をしなかったこと」で私の父を責めた。

父は、詫びを入れるためよろよろの状態で義伯父に土下座をしたそうだ。

私は、この話を母から数年後に聞いた。

その話を聞いて、私はすぐに伯母と義伯父にそしてその息子たち(いとこ)に怒りをぶつけに行けばよかった。どうして、私は何も言わなかったんだろう。その時は義伯父を許さない!と思いながらも伯母への配慮か何かで伯父とも機会があれば話すこともあった。

配慮なんていらなかったと今は思う。

怒りの矛先は、実は義伯父ではなく私自身。私は、誰に忖度をして何を守ったんだろう。

そして、3年ほど前にその伯母も亡くなった。

知ってはいたけれど義伯父は、伯母に対してDVをしていた。仕事も伯母に相談もなく勝手に辞めて、伯母は経済的に困り私の母や叔母に経済的な支援を仰いだ。

この経済的支援の話を伯母は、夫(義伯父)や息子たち(いとこ)には話していなかった。

叔母は、「ねえちゃんは、ずるいねん。」と私に話した。

優しいと思っていた伯母はどこだろう・・・





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