政教分離原則事例の処理

STEP1.擬律

 政教分離規定は①20条3項「宗教的活動」、②20条1項後段「特権」、③89条「公金その他公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、…これを支出し、又はその利用に供してはならない」である。
 また、②の金銭的援助が89条であり、これらは「国(の)…宗教的活動」に該当する。すなわち、20条3項>20条1項後段>89条という関係に立つ。
 さらに、20条3項は「宗教的活動」の客体を特定していないのに対して、20条1項後段は主体を「宗教団体」、89条は客体を「宗教上の組織若しくは団体」と限定しているため、まずは主体ないし客体の宗教団体性の有無で擬律を考えることになる。

 憲法20条1項後段にいう「宗教団体」、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体とは、…特権(の)…付与…また、公金その他公の財産を支出し又はその利用に供したりすることが、特定の宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になり、憲法上の政教分離原則に反すると解されるものをいうのであり、換言すると、特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行うことを本来の目的とする組織ないし団体を指す…。
箕輪忠魂碑訴訟(最判H5.2.16)

※箕輪忠魂碑訴訟では、宗教団体性を定義するために、目的効果基準を用いている。しかし、大石眞は「宗教に係る公的機関の行為の合憲性を判定する目的効果基準を、その行為の相手方たる私的団体の性格や活動内容を判定するのに用いることは、判断すべきポイントを見誤ったもの」と批判しており、学説上も同調している。それを受けてか、その後の愛媛玉串訴訟では修正されている。

宗教団体性を肯定した判例として、
・愛媛玉串訴訟(最大判H9.4.2)
・空知太神社訴訟(最大判H22.1.20)

 靖国神社及び護國神社は憲法89条にいう宗教上の組織又は団体に当たることが明らかである
愛媛玉串訴訟
 本件神社物件を管理し、…祭事を行っているのは、本件利用提供行為の直接の相手方である本件町内会ではなく、本件氏子集団である。本件氏子集団は…町内会に包摂される団体ではあるものの、町内会とは別に社会的に実在しているものと認められる。そして、この氏子集団は、宗教的行事等を行うことを目的としている宗教団体であって、寄附を集めて本件神社の祭事を行っており、憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」に当たる
空知太神社訴訟

※直接の相手方である町内会ではなく、あえてその内部組織の氏子集団を客体と特定したことには批判もある。もっとも、孔子廟訴訟があるため、仮に宗教団体性を否定しても20条3項により違憲となることに変わりはないと考えられる。

 安藤貴行は、「…長年の付近住民の慣行として、一時的に、年3回の行事のときにのみ、いわば有志組織としてそれを手伝うという形で…神社に関わるにすぎず、しかもそのグループの範囲も明確でなく、神道の信仰を有していない者も多数居る…氏子集団を物件の管理者とし、そのことを受けて氏子集団を、…憲法89条にいう『宗教上の組織若しくは団体』に当たるものと解されるとすることが、はたして妥当か、強い疑問が抱かれるところである」と述べている。
赤坂正浩「孔子廟違憲判決」(辻村みよ子『憲法研究』第10号、2022.6)

宗教団体性を否定した判例として、
・大阪地蔵像訴訟(最判H4.11.16、町内会)
・箕輪忠魂碑訴訟(最判H5.2.16、遺族会)
(・孔子廟訴訟(最大判R3..2.24)、一般社団法人【久米崇聖会】)

 本件町内会は、その区域に居住する者等によって構成されたいわゆる町内会組織であって、宗教的活動を目的とする団体ではなく、その本件各地蔵像の維持運営に関する行為も、宗教的色彩の希薄な伝統的習俗行事にとどまっている
大阪地蔵像訴訟
 財団法人日本遺族会及びその支部である市遺族会、地区遺族会は、いずれも、戦没者遺族の相互扶助・福祉向上と英霊の顕彰を主たる目的として設立され活動している団体であって、その事業の一つである英霊顕彰事業として、政府主催の遺骨収集、外地戦跡の慰霊巡拝、全国戦没者追悼式等への参加、協力などの活動のほか、神式又は仏式による慰霊祭の挙行、靖国神社の参拝等の宗教的色彩を帯びた行事をも実施し、靖国神社国家護持の推進運動にも参画しているが、右行事の実施及び右運動への参画は、会の本来の目的として、特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行おうとするものではなく、その会員が戦没者の遺族であることにかんがみ、戦没者の慰霊、追悼、顕彰のための右行事等を行うことが、会員の要望に沿うものであるとして行われている…。
 これらの諸点を考慮すると、…特定の宗教の信仰、礼拝又は普及等の宗教的活動を行うことを本来の目的とする組織ないし団体には該当しないものというべき
箕輪忠魂碑訴訟
 久米三十六姓の歴史的研究等をも目的としているものの、宗教性を有する本件施設の公開や宗教的意義を有する釋奠祭禮の挙行を定款上の目的又は事業として掲げており,実際に本件施設において,多くの参拝者を受け入れ,釋奠祭禮を挙行している。
※使用料全額免除が久米崇聖会の宗教的活動を容易にする効果を有することを認めているが、その「宗教上の組織若しくは団体」該当性については明言を避けている。
孔子廟訴訟

STEP2.政教分離原則の解釈

α.厳格分離説(愛媛玉串訴訟における尾崎行信裁判官の意見)

 …憲法は、大日本帝国憲法下において信教の自由の保障が不十分であったため種々の弊害が生じたことにかんがみ、信教の自由を無条件に保障し、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けたものであり、これを設けるに当たっては、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたものと解すべきである。右大法廷判決(津地鎮祭事件)は、右の説示に続けて、国家が諸施策を実施するに当たり宗教とのかかわり合いを生ずることは免れ難く、国家と宗教との完全分離を実現することは実際上不可能に近いし、これに固執すればかえって社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないとし、完全分離の理想を貫徹し得ない例として、宗教関係の私立学校への助成等を挙げている。なるほど平等権や信教の自由を否定する結果を招くような完全分離は不合理極まりないとみることができるから、こうした憲法的価値を確保することができるよう考慮を払うことには理由があり、厳格な完全分離の例外を一定限度で許し、柔軟に対応する余地を残すことは、複雑多岐な社会事象を処理するための慎重な態度というべきであろう。この範囲において、私は、右大法廷判決の説くところに同意することができる。そして、私は、右の説示の趣旨に沿って政教分離規定を解釈すれば、国家と宗教との完全分離を原則とし、完全分離が不可能であり、かつ、分離に固執すると不合理な結果を招く場合に限って、例外的に国家と宗教とのかかわり合いが憲法上許容されるとすべきものと考えるのである。
 このような考え方に立てば、憲法20条3項が「いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているのも、国が宗教とのかかわり合いを持つ行為は、原則として禁止されるとした上で、ただ実際上国家と宗教との分離が不可能で、分離に固執すると不合理な結果を生ずる場合に限って、例外的に許容されるとするものであると解するのが相当である。したがって、国は、その施策を実施するための行為が宗教とのかかわり合いを持つものであるときには、まず禁じられた活動に当たるとしてこれを避け、宗教性のない代替手段が存しないかどうかを検討すべきである。そして、当該施策を他の手段でも実施することができるならば、国は、宗教的活動に当たると疑われる行為をすべきではない。しかし、宗教とのかかわり合いを持たない方法では、当該施策を実施することができず、これを放棄すると、社会生活上不合理な結果を生ずるときは、更に進んで、当該施策の目的や施策に含まれる法的価値、利益はいかなるものか、この価値はその行為を行うことにより信教の自由に及ぼす影響と比べて優越するものか、その程度はどれほどかなどを考慮しなければならない。施策を実施しない場合に他の重要な価値、特に憲法的価値の侵害が生ずることも、著しい社会的不合理の一場合である。こうした検証を経た上、政教分離原則の除外例として特に許容するに値する高度な法的利益が明白に認められない限り、国は、疑義ある活動に関与すべきではない。このような解釈こそが、憲法が政教分離規定を設けた前述の経緯や趣旨に最もよく合致し、文言にも忠実なものである上、合憲性の判断基準としても明確で疑義の少ないものということができる。そして、右の検討の結果、明確に例外的事情があるものと判断されない限り、その行為は禁止されると解するのが、制度の趣旨に沿うものと考える。
愛媛玉串訴訟

※国家と宗教とのかかわり合いを認定した上で、それが許容されるか否かの判断基準は、「政教分離原則の除外例として特に許容するに値する高度な法的利益が明白に認められる場合、具体的には、①実際上国家と宗教との分離が不可能で、②分離に固執すると不合理な結果を生ずる場合には、例外的に許容される。」

※厳格分離説を否定して、相対的分離説を採用するためには、結局、津地鎮祭事件の法廷意見に乗るのが最も容易であるから、津地鎮祭事件の前半部分を論証した上で、上記の厳格分離説による帰結を端的に示しつつ、同事件後半部分を論証するのが良い。

β.相対分離説(法廷意見)

 一般に、政教分離原則とは、およそ宗教や信仰の問題は、もともと政治的次元を超えた個人の内心にかかわることがらであるから、世俗的権力である国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)は、これを公権力の彼方におき、宗教そのものに干渉すべきではないとする、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。
 もとより、国家と宗教との関係には、それぞれの国の歴史的・社会的条件によつて異なるものがある。
 わが国では、…憲法は、明治維新以降国家と神道とが密接に結びつき種々の弊害を生じたことにかんがみ、新たに信教の自由を無条件に保障することとし、更にその保障を一層確実なものとするため、政教分離規定を設けるに至ったのである(歴史的条件)。
 元来、わが国においては、キリスト教諸国や回教諸国等と異なり、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきているのであつて、このような宗教事情のもとで信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった(文社会的条件)。
 これらの諸点にかんがみると、憲法は、政教分離規定を設けるにあたり、国家と宗教との完全な分離を理想とし、国家の非宗教性ないし宗教的中立性を確保しようとしたもの、と解すべきである。

-中略- 

 ところが、宗教は、信仰という個人の内心的な事象としての側面を有するにとどまらず、同時に極めて多方面にわたる外部的な社会事象としての側面を伴うのが常であつて、この側面においては、教育、福祉、文化、民俗風習など広汎な場面で社会生活と接触することになり、そのことからくる当然の帰結として、国家が、社会生活に規制を加え、あるいは教育、福祉、文化などに関する助成、援助等の諸施策を実施するにあたつて、宗教とのかかわり合いを生ずることを免れえないこととなる。したがつて、現実の国家制度として、国家と宗教との完全な分離を実現することは、実際上不可能に近いものといわなければならない。
 更にまた、政教分離原則を完全に貫こうとすれば、かえつて社会生活の各方面に不合理な事態を生ずることを免れないのであつて、例えば、特定宗教と関係のある私立学校に対し一般の私立学校と同様な助成をしたり、文化財である神社、寺院の建築物や仏像等の維持保存のため国が宗教団体に補助金を支出したりすることも疑問とされるに至り、それが許されないということになれば、そこには、宗教との関係があることによる不利益な取扱い、すなわち宗教による差別が生ずることになりかねず、また例えば、刑務所等における教誨活動も、それがなんらかの宗教的色彩を帯びる限り一切許されないということになれば、かえつて受刑者の信教の自由は著しく制約される結果を招くことにもなりかねないのである。
 これらの点にかんがみると、政教分離規定の保障の対象となる国家と宗教との分離にもおのずから一定の限界があることを免れず、政教分離原則が現実の国家制度として具現される場合には、それぞれの国の社会的・文化的諸条件に照らし、国家は実際上宗教とある程度のかかわり合いをもたざるをえないことを前提としたうえで、そのかかわり合いが、信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で、いかなる場合にいかなる限度で許されないこととなるかが、問題とならざるをえないのである。
 右のような見地から考えると、わが憲法の前記政教分離規定の基礎となり、その解釈の指導原理となる政教分離原則は、国家が宗教的に中立であることを要求するものではあるが、国家が宗教とのかかわり合いをもつことを全く許さないとするものではなく、宗教とのかかわり合いをもたらす行為の目的及び効果にかんがみ、そのかかわり合いが右の諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものと認められる場合にこれを許さないとするものであると解すべきである。
津地鎮祭事件
 憲法は、20条1項後段、3項、89条において、いわゆる政教分離の分離に基づく諸規定(以下「政教分離規定」という。)を設けているところ、一般に、政教分離原則とは、国家(地方公共団体を含む。以下同じ。)の非宗教性ないし宗教的中立性を意味するものとされている。
 そして、我が国においては、各種の宗教が多元的、重層的に発達、併存してきている(社会的条件)のであって、このような宗教事情の下で信教の自由を確実に実現するためには、単に信教の自由を無条件に保障するのみでは足りず、国家といかなる宗教との結びつきをも排除するため、政教分離規定を設ける必要性が大であった。
孔子廟訴訟

※孔子廟訴訟の判示が最も端的に政教分離原則の趣旨を示している。これはその他の判例群が国家神道の事案であったことから、そのまま流用することができない部分が存在することに起因する。但し、より完全解を目指すのであれば、儒教の歴史的条件も論じると津地鎮祭事件の論証に近づく。

STEP3.政教分離規定の解釈

※目的効果基準と総合考慮基準とに優位な差はなく、双方共に諸般の事情を総合的に考慮する。その違いに敢えて言及するのであれば、“問題となっている行為の開始時点において、その目的に宗教的意義が認められるか否か”である。ある場合は目的効果基準、ない場合は総合考慮基準である。宗教的意義がない場合には目的効果基準の第1要件である目的要件を突破しないおそれがある(ただし、抽象的な危険にすぎず、客観的に諸要素を考慮すれば目的要件をパスできると考えられる)ため、客観的要素に焦点をあてた基準の定立がなされる。

α.目的効果基準(要件検討型)

 目的効果基準とは、判例上は、「宗教的活動」の意義としての要件要素であり、その内容は、①行為の目的が宗教的意義をもち、②その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為である。もっとも、どの類型であっても用いることができると考えても良いだろう(判例は「宗教的活動」該当性で論証している点にいは触れること)。

 「宗教的活動」とは、前述の政教分離原則の意義に照らしてこれをみれば、およそ国及びその機関の活動で宗教とのかかわり合いをもつすべての行為を指すものではなく、そのかかわり合いが右にいう相当とされる限度を超えるものに限られるというべきであって、/ ①当該行為の目的が宗教的意義をもち、②その効果が宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になるような行為をいうものと解すべきである。その典型的なものは、同項に例示される宗教教育のような宗教の布教、教化、宣伝等の活動であるが、そのほか宗教上の祝典、儀式、行事等であつても、その目的、効果が前記のようなものである限り、当然、これに含まれる。/ 
 そして、この点から、ある行為が右にいう宗教的活動に該当するかどうかを検討するにあたつては、(a)当該行為の主宰者が宗教家であるかどうか、その順序作法(式次第)が宗教の定める方式に則つたものであるかどうかなど、当該行為の外形的側面のみにとらわれることなく、(b)当該行為の行われる場所、(c)当該行為に対する一般人の宗教的評価、(d)当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度、(e)当該行為の一般人に与える効果、影響(f)等、諸般の事情を考慮し、社会通念に従って、客観的に判断しなければならない
津地鎮祭事件

※STEP4.の内容ではあるが、(d)当該行為者が当該行為のを行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度において、判例は神職を基準に判断している。しかし、国家と宗教とのかかわり合いの有無の判断対象は、国家の”関与行為”、すなわち、市が宗教的性格を有する起工式を主催等することにより、国が宗教と関わり合いをもった、という点のはずである。神職が行った起工式は、”関与対象行為”であり、両者は区別すべきであるとするのが学説の理解である。
 渡辺康行は、「津地鎮祭判決が目的効果基準の判断要素として挙げていたものの一部は、実際には『かかわり合い』の審査の要素として用いている」と指摘する。

 「考慮諸要素のなかで、」(a)「当該行為の外形的側面、及び」(d)『当該行為者』が当該行為のを行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無、程度』の「『当該行為者』を“関与対象行為”の行為者(神職」、神社)と解し、これらは「かかわり合い」の有無の審査対象としての機能を有する。
 「となると、『かかわり合い』が『相当とされる限度を超える』かの審査に際しては、その他の要素が考慮されることが予想される。また、…『当該行為に対する一般人の宗教的評価』、『当該行為者』を『関与行為者』(市長以下の関係者)と受け止めた場合の『当該行為者が当該行為を行うについて意図、目的及び宗教的意識の有無、程度』、『当該行為の一般人に与える効果、影響』という考慮要素が、『相当とされる限度を超える』かの審査に際しては規定的な役割を演じている」
渡辺康行「『内心の自由』の法理」(岩波書店)348頁

β.総合考慮基準(要素検討型)

憲法89条は,公の財産を宗教上の組織又は団体の使用,便益若しくは維持のため,その利用に供してはならない旨を定めている。その趣旨は,国家が宗教的に中立であることを要求するいわゆる政教分離の原則を,公の財産の利用提供等の財政的な側面において徹底させるところにあり,これによって,憲法20条1項後段の規定する宗教団体に対する特権の付与の禁止を財政的側面からも確保し,信教の自由の保障を一層確実なものにしようとしたものである。しかし,国家と宗教とのかかわり合いには種々の形態があり,およそ国又は地方公共団体が宗教との一切の関係を持つことが許されないというものではなく,憲法89条も,公の財産の利用提供等における宗教とのかかわり合いが,我が国の社会的,文化的諸条件に照らし,信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認められる場合に,これを許さないとするものと解される。
 国又は地方公共団体が国公有地を無償で宗教的施設の敷地としての用に供する行為は,一般的には,当該宗教的施設を設置する宗教団体等に対する便宜の供与として,憲法89条との抵触が問題となる行為であるといわなければならない。
 もっとも,国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されているといっても,当該施設の性格や来歴無償提供に至る経緯利用の態様等には様々なものがあり得ることが容易に想定されるところである。例えば,一般的には宗教的施設としての性格を有する施設であっても,同時に歴史的,文化財的な建造物として保護の対象となるものであったり,観光資源,国際親善,地域の親睦の場などといった他の意義を有していたりすることも少なくなく,それらの文化的あるいは社会的な価値や意義に着目して当該施設が国公有地に設置されている場合もあり得よう。
 また,我が国においては,明治初期以来,一定の社寺領を国等に上知(上地)させ,官有地に編入し,又は寄附により受け入れるなどの施策が広く採られたこともあって,国公有地が無償で社寺等の敷地として供される事例が多数生じた。このような事例については,戦後,国有地につき「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」(昭和22年法律第53号)が公布され,公有地についても同法と同様に譲与等の処分をすべきものとする内務文部次官通牒が発出された上,これらによる譲与の申請期間が経過した後も,譲与,売払い,貸付け等の措置が講じられてきたが,それにもかかわらず,現在に至っても,なおそのような措置を講ずることができないまま社寺等の敷地となっている国公有地が相当数残存していることがうかがわれるところである(神社に関する特殊事情)。
これらの事情のいかんは,当該利用提供行為が,一般人の目から見て特定の宗教に対する援助等と評価されるか否かに影響するものと考えられるから,政教分離原則との関係を考えるに当たっても,重要な考慮要素とされるべきものといえよう。
 そうすると,国公有地が無償で宗教的施設の敷地としての用に供されている状態が,前記の見地から,信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて憲法89条に違反するか否かを判断するに当たっては,(a)当該宗教的施設の性格,(b)当該土地が無償で当該施設の敷地としての用に供されるに至った経緯,(c)当該無償提供の態様,(d)これらに対する一般人の評価(e)等,諸般の事情を考慮し,社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である。
空知太神社訴訟

 ※空知太神社訴訟では、重要な考慮要素として、①(a)当該宗教施設の性格や来歴、(b)無償提供に至る経緯(c)利用の態様、②神社の土地につき、もともと私人が市に寄付したもので、「寺社等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」の適用があるはずという要素が挙げられている。

※なお、同日に出された富平神社訴訟(最大判H22.1.20)は、まさに「寺社等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」の適用(譲渡行為)があったものであるから、政教分離原則の趣旨に則した行為であるため、合憲となっている。

 同様の問題に関し,「社寺等に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」(昭和22年法律第53号)は,同法施行前に寄附等により国有となった財産で,その社寺等の宗教活動を行うのに必要なものは,所定の手続を経てその社寺等に譲与することを認めたが,それは,政教分離原則を定める憲法の下で,社寺等の財産権及び信教の自由を尊重しつつ国と宗教との結び付きを是正解消するためには,上記のような財産につき譲与の措置を講ずることが最も適当と考えられたことによるものと解される。公有地についてもこれと同様に譲与等の処分をすべきものとする内務文部次官通牒が発出された上,譲与の申請期間が経過した後も,譲与,売払い,貸付け等の措置が講じられてきたことは,当裁判所に顕著である。本件譲与は,上記のような理念にも沿うものであって,市と本件神社とのかかわり合いを是正解消する手段として相当性を欠くということもできない。
富平神社訴訟
 …国家と宗教との関わり合いには種々の形態があり,およそ国家が宗教との一切の関係を持つことが許されないというものではなく,政教分離規定は,その関わり合いが我が国の社会的,文化的諸条件に照らし,信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものと認められる場合に,これを許さないとするものであると解される。
 そして,国又は地方公共団体が,国公有地上にある施設の敷地の使用料の免除をする場合においては,当該施設の性格当該免除をすることとした経緯等には様々なものがあり得ることが容易に想定されるところであり,例えば,一般的には宗的施設としての性格を有する施設であっても,同時に歴史的,文化財的な建造物として保護の対象となるものであったり,観光資源,国際親善,地域の親睦の場などといった他の意義を有していたりすることも少なくなく,それらの文化的あるいは社会的な価値や意義に着目して当該免除がされる場合もあり得る。
これらの事情のいかんは,当該免除が,一般人の目から見て特定の宗教に対する援助等と評価されるか否かに影響するものと考えられるから,政教分離原則との関係を考えるに当た っても,重要な考慮要素とされるべきものといえる。
 そうすると,当該免除が,前記諸条件に照らし,信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えて,政教分離規定に違反するか否かを判断するに当たっては,(a)当該施設の性格,(b)当該免除をすることとした経緯,(c)当該免除に伴う当該国公有地の無償提供の態様,(d)これらに対する一般人の評価(e)等,諸般の事情を考慮し,社会通念に照らして総合的に判断すべきものと解するのが相当である
孔子廟訴訟

※孔子廟訴訟では、重要な考慮要素として、(a)当該施設の性格、(b)当該免除をすることとした経緯が挙げられている。

STEP4.政教分離規定違反の有無の検討

α.「かかわり合い」の有無の審査

本件合祀申請という行為は、殉職自衛隊員の氏名とその殉職の事実を県護国神社に対し明らかにし、合祀の希望を表明したものであって、宗教とかかわり合いをもつ行為であるが、合祀の前提としての法的意味をもつものではない。
自衛官合祀訴訟

※外形的側面から客観的に「かかわり合い」を認定している。ただし、後述のように、その「かかわり合い」は間接的であるとして、目的効果基準の簡易な適用を導いている。

本件起工式は、…、建物の建築の着工にあたり、土地の平安堅固、工事の無事安全を祈願する儀式として行われたことが明らかであるが、その儀式の方式は、…、専門の宗教家である神職が、所定の服装で、神社神道固有の祭式に則り、一定の祭場を設け一定の祭具を使用して行ったというのであり、また、これを主宰した神職自身も宗教的信仰心に基づいてこれを執行したものと考えられるから、それが宗教とかかわり合いをもつものであることは、否定することができない
津地鎮祭事件

※前述のとおり、「かかわり合い」の有無は、政教分離原則の趣旨からすると、(d)「当該行為者」とは、本来は、かかわり合いをもたらす行為(関与行為)の行為者である市長以下の関係者を指すべきである。

 被上告人中川らは、いずれも宗教法人であって憲法20条1項後段にいう宗教団体に当たることが明らかな靖國神社又は護國神社が各神社の境内において挙行した恒例の宗教上の祭祀である例大祭、みたま祭又は慰霊大祭に際して、玉串料、献灯料又は供物料を奉納するため、…金員を県の公金から支出したというのである。
 ところで、神社神道においては、祭祀を行うことがその中心的な宗教上の活動であるとされていること、例大祭及び慰霊大祭は、神道の祭式にのっとって行われる儀式を中心とする祭祀であり、各神社の挙行する恒例の祭祀中でも重要な意義を有するものと位置付けられていること、みたま祭は、同様の儀式を行う祭祀であり、靖國神社の祭祀中最も盛大な規模で行われるものであることは、いずれも公知の事実である。そして、玉串料及び供物料は、例大祭又は慰霊大祭において右のような宗教上の儀式が執り行われるに際して神前に供えられるものであり、献灯料は、これによりみたま祭において境内に奉納者の名前を記した灯明が掲げられるというものであって、いずれも各神社が宗教的意義を有すると考えていることが明らかなものである。
 これらのことからすれば、県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持ったということが明らかである。
愛媛玉串訴訟

※ここでも、関与対象行為である例大祭や慰霊大祭などが考慮の対象となり、外形的側面と神社の宗教的意識を検討している。こうすると判例にしたがって書く場合には素直に関与対象行為の「行為者」としての認識を検討しても問題ないだろう()。
※津地鎮祭は「宗教とのかかわり合い」と認定したのに対し、愛媛玉串訴訟では「県が特定の宗教団体の挙行する重要な宗教上の祭祀にかかわり合いを持った」とより具体的に認定している。これは起工式のように世俗性の高いものと対比する趣旨であろう。答案で違憲筋を書く場合にはこのように特定する方が良い。

国又は地方公共団体が国有地を無償で宗教的施設の敷地としての用に供する行為は、一般的には、当該宗教的施設を設置する宗教団体等に対する便宜の供与として、憲法89条との抵触が問題となる行為である。 
空知太神社訴訟
-不在-
 以上のように解すべきことは,当裁判所の判例(最高裁昭和46年(行ツ)第6 9号同52年7月13日大法廷判決・民集31巻4号533頁,最高裁平成4年 (行ツ)第156号同9年4月2日大法廷判決・民集51巻4号1673頁,最高 裁平成19年(行ツ)第260号同22年1月20日大法廷判決・民集64巻1号 1頁,最高裁平成19年(行ツ)第334号同22年1月20日大法廷判決・民集 64巻1号128頁等)の趣旨とするところからも明らかである。
孔子廟訴訟

※孔子廟訴訟では「かかり合い」の有無を認定していないが、同様の事案類型である空知太神社訴訟の趣旨と同じであるとすることから、「かかわり合い」の存在を前提としている、と考えるべきであろう。なお、空知太神社訴訟の判示事項(関連部分)は「市が連合町内会に対し市有地を無償で神社施設の敷地としての利用に供している行為」であり、孔子廟訴訟の判示事項(同)は「市長が市の管理する都市公園内に孔子等を祀った施設を所有する一般社団法人に対して同施設の敷地の使用料の全額を免除した行為」である。
⇒答案で「かかわり合い」を認定する際には、「国又は公共団体が、国有地に後述するような宗教性を有する施設を所有する一般社団法人に対して、敷地の使用料の全額を免除する行為は「宗教的活動」として憲法20条3項との抵触が問題となる行為である」となるか。もっとも、そこまで判例の論証に拘泥せず、端的に「かかり合い」がある、と認定する方が綺麗かもしれない。

β-1.目的効果基準の厳密な検討

蟻川恒正の「理解によれば、…第一に、目的効果基準の通常の適用がされるべき事案類型を、国及びその期間の行為と宗教との関わり合いが「直接的」である場合に限定」する。
-中略-
「行為と宗教との関わり合いが「直接的」であるとは、当該行為がその働きかけの対象とするものの宗教性の核心に結びついていることを指」す。
蟻川恒正「裁判における事実の解像度」(蟻川他『憲法の土壌を培養する』2022)
 (a)当該行為の外形的側面
 (d)当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無 
 本件起工式は、…、建物の建築の着工にあたり、土地の平安堅固、工事の無事安全を祈願する儀式として行われたことが明らかであるが、その儀式の方式は、…、専門の宗教家である神職が、所定の服装で、神社神道固有の祭式に則り、一定の祭場を設け一定の祭具を使用して行ったというのであり、また、これを主宰した神職自身も宗教的信仰心に基づいてこれを執行したものと考えられるから、それが宗教とかかわり合いをもつものであることは、否定することができない
 (以上、「かかわり合い」の肯定)

 (c)当該行為に対する一般人の宗教的評価
 しかしながら、古来建物等の建築の着工にあたり地鎮祭等の名のもとに行われてきた土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願する儀式、すなわち起工式は、土地の神を鎮め祭るという宗教的な起源をもつ儀式であつたが、時代の推移とともに、その宗教的な意義が次第に稀薄化してきていることは、疑いのないところである。一般に、建物等の建築の着工にあたり、工事の無事安全等を祈願する儀式を行うこと自体は、「祈る」という行為を含むものであるとしても、今日においては、もはや宗教的意義がほとんど認められなくなつた建築上の儀礼と化し、その儀式が、たとえ既存の宗教において定められた方式をかりて行われる場合でも、それが長年月にわたつて広く行われてきた方式の範囲を出ないものである限り、一般人の意識においては、起工式にさしたる宗教的意義を認めず、建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼として、世俗的な行事と評価しているものと考えられる。本件起工式は、神社神道固有の祭祀儀礼に則つて行われたものであるが、かかる儀式は、国民一般の間にすでに長年月にわたり広く行われてきた方式の範囲を出ないものであるから、一般人及びこれを主催した津市の市長以下の関係者の意識においては、これを世俗的行事と評価し、これにさしたる宗教的意識を認めなかったものと考えられる。

(d)当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無
 また、現実の一般的な慣行としては、建築着工にあたり建築主の主催又は臨席のもとに本件のような儀式をとり入れた起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているのであり、このことと前記のような一般人の意識に徴すれば、建築主が一般の慣習に従い起工式を行うのは、工事の円滑な進行をはかるため工事関係者の要請に応じ建築着工に際しての慣習化した社会的儀礼を行うという極めて世俗的な目的によるものであると考えられるのであつて、特段の事情のない本件起工式についても、主催者の津市の市長以下の関係者が右のような一般の建築主の目的と異なるものをもつていたとは認められない

(e)当該行為の一般人に与える効果、影響
 元来、わが国においては、多くの国民は、地域社会の一員としては神道を、個人としては仏教を信仰するなどし、冠婚葬祭に際しても異なる宗教を使いわけてさしたる矛盾を感ずることがないというような宗教意識の雑居性が認められ、国民一般の宗教的関心度は必ずしも高いものとはいいがたい。他方、神社神道自体については、祭祀儀礼に専念し、他の宗教にみられる積極的な布教・伝道のような対外活動がほとんど行われることがないという特色がみられる。このような事情と前記のような起工式に対する一般人の意識に徴すれば、建築工事現場において、たとえ専門の宗教家である神職により神社神道固有の祭祀儀礼に則つて、起工式が行われたとしても、それが参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられず、これにより神道を援助、助長、促進するような効果をもたらすことになるものとも認められない。そして、このことは、国家が主催して、私人と同様の立場で、本件のような儀式による起工式を行つた場合においても、異なるものではなく、そのために、国家と神社神道との間に特別に密接な関係が生じ、ひいては、神道が再び国教的な地位をえたり、あるいは信教の自由がおびやかされたりするような結果を招くものとは、とうてい考えられないのである。

 以上の諸事情を総合的に考慮して判断すれば、本件起工式は、宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は建築着工に際し土地の平安堅固、工事の無事安全を願い、社会の一般的慣習に従つた儀礼を行うという専ら世俗的なものと認められ、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから、憲法20条3項により禁止される宗教的活動にはあたらないと解するのが、相当である。
津地鎮祭事件
 (b)当該行為の行われる場所
 (c)当該行為に対する一般人の宗教的評価
 一般に、神社自体がその境内において挙行する恒例の重要な祭祀に際して右のような玉串料等を奉納することは、(建築主が主催して建築現場において土地の平安堅固、工事の無事安全等を祈願するために行う儀式である起工式の場合とは異なり、時代の推移によって既にその宗教的意義が希薄化し、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとまでは到底いうことができず、一般人が本件の玉串料等の奉納を社会的儀礼の一つにすぎないと評価しているとは考え難いところである。

 (d)当該行為者が当該行為を行うについての意図、目的及び宗教的意識の有無
 そうであれば、玉串料等の奉納者においても、それが宗教的意義を有するものであるという意識を大なり小なり持たざるを得ないのであり、このことは、本件においても同様というべきである。また、本件においては、県が他の宗教団体の挙行する同種の儀式に対して同様の支出をしたという事実がうかがわれないのであって、県が特定の宗教団体との間にのみ意識的に特別のかかわり合いを持ったことを否定することができない

(e)当該行為の一般人に与える影響、効果
 これらのことからすれば、地方公共団体が特定の宗教団体に対してのみ本件のような形で特別のかかわり合いを持つことは、一般人に対して、県が当該特定の宗教団体を特別に支援しており、それらの宗教団体が他の宗教団体とは異なる特別のものであるとの印象を与え、特定の宗教への関心を呼び起こすものといわざるを得ない


 (c)当該行為に対する一般人の宗教的評価
 被上告人らは、本件支出は、遺族援護行政の一環として、戦没者の慰霊及び遺族の慰謝という世俗的な目的で行われた社会的儀礼にすぎないものであるから、憲法に違反しないと主張する。確かに、靖國神社及び護國神社に祭られている祭神の多くは第2次大戦の戦没者であって、その遺族を始めとする愛媛県民のうちの相当数の者が、県が公の立場において靖國神社等に祭られている戦没者の慰霊を行うことを望んでおり、そのうちには、必ずしも戦没者を祭神として信仰の対象としているからではなく、故人をしのぶ心情からそのように望んでいる者もいることは、これを肯認することができる。そのような希望にこたえるという側面においては、本件の玉串料等の奉納に儀礼的な意味合いがあることも否定できない。しかしながら、明治維新以降国家と神道が密接に結び付き種々の弊害を生じたことにかんがみ政教分離規定を設けるに至ったなど前記の憲法制定の経緯に照らせば、たとえ相当数の者がそれを望んでいるとしても、そのことのゆえに、地方公共団体と特定の宗教とのかかわり合いが、相当とされる限度を超えないものとして憲法上許されることになるとはいえない。戦没者の慰霊及び遺族の慰謝ということ自体は、本件のように特定の宗教と特別のかかわり合いを持つ形でなくてもこれを行うことができると考えられるし、神社の挙行する恒例祭に際して玉串料等を奉納することが、慣習化した社会的儀礼にすぎないものになっているとも認められないことは、前記説示のとおりである。ちなみに、神社に対する玉串料等の奉納が故人の葬礼に際して香典を贈ることとの対比で論じられることがあるが、香典は、故人に対する哀悼の意と遺族に対する弔意を表するために遺族に対して贈られ、その葬礼儀式を執り行っている宗教家ないし宗教団体を援助するためのものではないと一般に理解されており、これと宗教団体の行う祭祀に際して宗教団体自体に対して玉串料等を奉納することとでは、一般人の評価において、全く異なるものがあるといわなければならない。また、被上告人らは、玉串料等の奉納は、神社仏閣を訪れた際にさい銭を投ずることと同様のものであるとも主張するが、地方公共団体の名を示して行う玉串料等の奉納と一般にはその名を表示せずに行うさい銭の奉納とでは、その社会的意味を同一に論じられないことは、おのずから明らかである。そうであれば、本件玉串料等の奉納は、たとえそれが戦没者の慰霊及びその遺族の慰謝を直接の目的としてされたものであったとしても、世俗的目的で行われた社会的儀礼にすぎないものとして憲法に違反しないということはできない
 以上の事情を総合的に考慮して判断すれば、県が本件玉串料等を靖國神社又は護國神社に前記のとおり奉納したことは、その目的が宗教的意義を持つことを免れず、その効果が特定の宗教に対する援助、助長、促進になると認めるべきであり、これによってもたらされる県と靖國神社等とのかかわり合いが我が国の社会的・文化的諸条件に照らし相当とされる限度を超えるものであって、憲法20条3項の禁止する宗教的活動に当たると解するのが相当である。
愛媛玉串訴訟

β-2.目的効果基準の簡易な検討

蟻川恒正の「理解によれば、…第一に、…行為と宗教との関わり合いが「間接的」である場合は、目的効果基準を通常よりも簡易に適用することができるとする法命題を定立」することになる。

「行為と宗教との関わり合いが「間説的」であるとは、当該行為がその働きかけの対象とするものの宗教性の核心に結びついていないことを指す」

「簡易の適用とは、目的要件の審査においては、「行為者」の主観的目的として世俗的目体(原文ママ。目的)の認定ができれば、「行為」の客観的目的を認定しなくとも宗教的意義の有無につきそれ以上検討しなくてよいとするものであり、効果要件の審査においては、「援助、助長」、または「圧迫、干渉」の該当性を判断するに当たって、特定宗教との間の「特別」に密接な関連性の有無を判断しなくとも非該当と判断してよいとするものである」
蟻川恒正「裁判における事実の解像度」(蟻川他『憲法の土壌を培養する』2022)
 昭和46年3月中国四国外郭団体懇談会の席上において、福田会長がした合祀問題の進捗状況の報告に対し陸上自衛隊第13師団長の賛意の表明と推進の要望があり、その後地連において合祀申請を積極的に推進する態勢がとられるに至ったというのが原審の確定するところであるが、本件合祀申請に至る過程において地連職員のした具体的行為は、粟屋総務課長において長崎県を除く九州各県の自衛隊地方連絡部の総務課長にあてて各地の護国神社における殉職自衛隊員の合祀状況等を照会して、その回答を福田会長に閲覧させ、福田会長の依頼により安田事務官において奉斎準則と県隊友会の募金趣意書とを起案し、右趣意書を配布し、寄せられた募金を管理し、殉職者の遺族から合祀に必要な殉職者の除籍謄本及び殉職証明書を取り寄せたにとどまるのであり、地連ないしその職員が直接県護国神社に対し合祀を働き掛けた事実はない。
 これらの事実からすれば、孝文を含む殉職自衛隊員27名の県護国神社による合祀は、基本的には遺族の要望を受けた県隊友会がその実現に向けて同神社と折衝を重ねるなどの努力をし、同神社が殉職自衛隊員を合祀する方針を決定した結果実現したものである。してみれば、県隊友会において地連職員の事務的な協力に負うところがあるにしても、県隊友会の単独名義でされた本件合祀申請は、実質的にも県隊友会単独の行為であったものというべく、これを地連職員と県隊友会の共同の行為とし、地連職員も本件合祀申請をしたものと評価することはできないものといわなければならない。
-中略-
本件合祀申請という行為は、殉職自衛隊員の氏名とその殉職の事実を県護国神社に対し明らかにし、合祀の希望を表明したものであって、宗教とかかわり合いをもつ行為であるが、合祀の前提としての法的意味をもつものではない。そして、本件合祀申請に至る過程において県隊友会に協力してした地連職員の具体的行為は前記のとおりであるところ、その宗教とのかかわり合いは間接的であり、その意図、目的も、合祀実現により自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚を図ることにあったと推認されることは前記のとおりであるから、どちらかといえばその宗教的意識も希薄であったといわなければならないのみならず、その行為の態様からして、国又はその機関として特定の宗教への関心を呼び起こし、あるいはこれを援助、助長、促進し、又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるような効果をもつものと一般人から評価される行為とは認め難い
 したがって、地連職員の行為が宗教とかかわり合いをもつものであることは否定できないが、これをもって宗教的活動とまではいうことはできないものといわなければならない。
自衛官合祀訴訟(最大判S63.6.1)

γ.総合考慮基準の検討

(a)当該施設の性格や来歴
❶外観
 本件鳥居,地神宮,「神社」と表示された会館入口から祠に至る本件神社物件は,一体として神道の神社施設に当たるものと見るほかはない。
❷行事
 また,本件神社において行われている諸行事は,地域の伝統的行事として親睦などの意義を有するとしても,神道の方式にのっとって行われているその態様にかんがみると,宗教的な意義の希薄な,単なる世俗的行事にすぎないということはできない
 このように,本件神社物件は,神社神道のための施設であり,その行事も,このような施設の性格に沿って宗教的行事として行われているものということができる。

❸管理者
 本件神社物件を管理し,上記のような祭事を行っているのは,本件利用提供行為の直接の相手方である本件町内会ではなく,本件氏子集団である。本件氏子集団は,前記のとおり,町内会に包摂される団体ではあるものの,町内会とは別に社会的に実在しているものと認められる。そして,この氏子集団は,宗教的行事等を行うことを主たる目的としている宗教団体であって,寄附を集めて本件神社の祭事を行っており,憲法89条にいう「宗教上の組織若しくは団体」に当たるものと解される。

❹効果 
 しかし,本件氏子集団は,祭事に伴う建物使用の対価を町内会に支払うほかは,本件神社物件の設置に通常必要とされる対価を何ら支払うことなく,その設置に伴う便益を享受している。すなわち,本件利用提供行為は,その直接の効果として,氏子集団が神社を利用した宗教的活動を行うことを容易にしているものということができる。

(d)一般人の評価 
 そうすると,本件利用提供行為は,市が,何らの対価を得ることなく本件各土地上に宗教的施設を設置させ,本件氏子集団においてこれを利用して宗教的活動を行うことを容易にさせているものといわざるを得ず,一般人の目から見て,市が特定の宗教に対して特別の便益を提供し,これを援助していると評価されてもやむを得ないものである。

(b)無償提供に至る経緯
 前記事実関係等によれば,本件利用提供行為は,もともとは小学校敷地の拡張に協力した用地提供者に報いるという世俗的,公共的な目的から始まったもので,本件神社を特別に保護,援助するという目的によるものではなかったことが認められるものの

(c)利用の態様
 明らかな宗教的施設といわざるを得ない本件神社物件の性格,これに対し長期間にわたり継続的に便益を提供し続けていることなどの本件利用提供行為の具体的態様等にかんがみると,本件において,当初の動機,目的は上記評価を左右するものではない。


 以上のような事情を考慮し,社会通念に照らして総合的に判断すると,本件利用提供行為は,市と本件神社ないし神道とのかかわり合いが,我が国の社会的,文化的諸条件に照らし,信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超えるものとして,憲法89条の禁止する公の財産の利用提供に当たり,ひいては憲法20条1項後段の禁止する宗教団体に対する特権の付与にも該当すると解するのが相当である。
空知太神社訴訟
(a)当該施設の性格や来歴
❶外観 
 本件施設は,本件公園の他の部分から仕切ら れた区域内に一体として設置されているところ,大成殿は,本件施設の本殿と位置 付けられており,その内部の正面には孔子の像及び神位が,その左右には四配の神 位がそれぞれ配置され,家族繁栄,学業成就,試験合格等を祈願する多くの人々に よる参拝を受けているほか,大成殿の香炉灰が封入された「学業成就(祈願)カード」が本件施設で販売されていたこともあったというのである。そうすると,本件施設は,その外観等に照らして,神体又は本尊に対する参拝を受け入れる社寺との 類似性があるということができる。

❷行事 
 本件施設で行われる釋奠祭禮は,その内容が供物を並べて孔子の霊を迎え,上 香,祝文奉読等をした後にこれを送り返すというものであることに鑑みると,思想 家である孔子を歴史上の偉大な人物として顕彰するにとどまらず,その霊の存在を 前提として,これを崇め奉るという宗教的意義を有する儀式というほかない

 ※観光資源など、社会的な価値や意義に着目して免除がされる場合の否定
 また,参加人(久米崇聖会は釋奠祭禮の観光ショー化等を許容しない姿勢を示しており,釋奠祭禮が主に観光振興等の世俗的な目的に基づいて行われているなどの事情もうかがわれない

 そして,参加人の説明によれば,至聖門の中央の扉は,孔子の霊を迎えるた めに1年に1度,釋奠祭禮の日にのみ開かれるものであり,孔子の霊は,御庭空間 の中央を大成殿に向かって直線的に伸びる御路を進み,大成殿の正面階段の中央部 分に設けられた石龍陛を越えて大成殿へ上るというのであるから,本件施設の建物 等は,上記のような宗教的意義を有する儀式である釋奠祭禮を実施するという目的 に従って配置されたものということができる。

❸管理者 
 また,当初の至聖廟等は,少なくとも明治時代以降,社寺と同様の取扱いを受け ていたほか,旧至聖廟等は,道教の神等を祀る天尊廟及び航海安全の守護神を祀る 天妃宮と同じ敷地内にあり,参加人はこれらを一体として維持管理し,多くの参拝 者を受け入れていたことがうかがわれる。旧至聖廟等は当初の至聖廟等を再建した ものと位置付けられ,本件施設はその旧至聖廟等を移転したものと位置付けられて いること等に照らせば,本件施設は当初の至聖廟等及び旧至聖廟等の宗教性を引き 継ぐものということができる。

 以上によれば,本件施設については,一体としてその宗教性を肯定することがで きることはもとより,その程度も軽微とはいえない。

(b)免除をすることとした経緯
 本件免除がされた経緯は,市が,本件施設の観光資源等としての意義に着 目し,又はかつて琉球王国の繁栄を支えた久米三十六姓が居住し,当初の至聖廟等があった久米地域に本件施設が所在すること等をもって本件施設の歴史的価値が認 められるとして,その敷地の使用料(公園使用料)を免除することとしたというも のであったことがうかがわれる。
 しかしながら,市は,本件公園の用地として,新たに国から国有地を購入し,又 は借り受けたものであるところ,参加人は自己の所有する土地上に旧至聖廟等を有 していた上,本件土地利用計画案においては,本件委員会等で至聖廟の宗教性を問 題視する意見があったこと等を踏まえて,大成殿を建設する予定の敷地につき参加 人の所有する土地との換地をするなどして,大成殿を私有地内に配置することが考 えられる旨の整理がされていたというのである。
  ※歴史的、文化財的的な建造物として保護の対象として免除されることの否定
 また,本件施設は,当初の至聖廟 等とは異なる場所に平成25年に新築されたものであって,当初の至聖廟等を復元 したものであることはうかがわれず,法令上の文化財としての取扱いを受けている などの事情もうかがわれない
 そうすると,本件施設の観光資源等としての意義や歴史的価値をもって,直ち に,参加人に対して本件免除により新たに本件施設の敷地として国公有地を無償で 提供することの必要性及び合理性を裏付けるものとはいえない

(c)免除に伴う無償提供の態様
 本件免除に伴う国公有地の無償提供の態様は,本件設置許可に係る占用面 積が1335m²に及び,免除の対象となる公園使用料相当額が年間で576万72 00円(占用面積1335m²×1か月360円×12か月)に上るというものであ って,本件免除によって参加人が享受する利益は,相当に大きいということができ る。
 また,本件設置許可の期間は3年とされているが,公園の管理上支障がない限 り更新が予定されているため,本件施設を構成する建物等が存続する限り更新が繰 り返され,これに伴い公園使用料が免除されると,参加人は継続的に上記と同様の 利益を享受することとなる。

❹効果
 そして,参加人は,久米三十六姓の歴史研究等をもその目的としているものの, 宗教性を有する本件施設の公開や宗教的意義を有する釋奠祭禮の挙行を定款上の目 的又は事業として掲げており,実際に本件施設において,多くの参拝者を受け入れ,釋奠祭禮を挙行している。このような参加人の本件施設における活動の内容や 位置付け等を考慮すると,本件免除は,参加人に上記利益を享受させることによ り,参加人が本件施設を利用した宗教的活動を行うことを容易にするものであると いうことができ,その効果が間接的,付随的なものにとどまるとはいえない

 (d)一般人の評価
 これまで説示したところによれば,本件施設の観光資源等としての意義や 歴史的価値を考慮しても,本件免除は,一般人の目から見て,市が参加人の上記活 動に係る特定の宗教に対して特別の便益を提供し,これを援助していると評価され てもやむを得ないものといえる。

 以上のような事情を考慮し,社会通念に照らして総合的に判断すると,本 件免除は,市と宗教との関わり合いが,我が国の社会的,文化的諸条件に照らし, 信教の自由の保障の確保という制度の根本目的との関係で相当とされる限度を超え るものとして,憲法20条3項の禁止する宗教的活動に該当すると解するのが相当 である。
孔子廟訴訟

参考文献

・蟻川恒正「政教分離規定『違反』事案の起案(1)〜(3)」法学教室434号108頁以下,435号111頁以下,436号90頁以下(有斐閣,2016)
・蟻川恒正「裁判における事実の解像度」蟻川ほか『憲法の土壌を培養する』(日本評論社,2022)
・渡辺康行『「内心の自由」の法理』325-365頁(岩波書店,2019)
・赤坂正浩「10.孔子廟訴訟」辻村みよ子『憲法研究 第10号』99頁以下(信山社,2022)
・高瀬保守「判解」ジュリスト1560号76-84頁(有斐閣,2021)
・判例の引用の一部は、京都産業大学の基本判例集(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/~suga/hanrei/hanrei-top.html#shinkyou)を利用させていただいた。

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