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村上春樹『アンダーグラウンド』 感想文

本書を読むにあたり、いくつかの戸惑いがあった。
1)この分厚い本を果たして読了できるだろうか?
2)個人的な話ではあるが、私は物語にある種の追体験をしてしまう傾向にあるため、ここに記されたリアルに対して自分の心を保つことができるだろうか?
3)1)〜2)を踏まえた上で、そもそも読むこと(知ること)に意味はあるのだろうか?
ということである。

1995年3月20日、私はテレビの中継で事件を知った。四半世紀近く前の記憶なので完全に一致しているとは断言できないが、「オウム」「地下鉄」「毒ガス(サリン)」というワードで概況を理解した。とはいえ、現場から100km以上離れている場所のブラウン管から見る現場の風景は、隣町のようでもあり、別の世界の出来事のようでもあった。

多くの物事は、長短はあれど発生と真相の間にタイムラグが発生する。
その際、第三者は事件の報道に対し、その瞬間に与えられた情報を元に評価を下してしまう傾向にある。
その多くは高みから投げかける心ない言葉であり、善悪のジャッジだ。
「どうしてこうしなかったんだろう?」
「自分だったらこうしていたのに」
しかしそれはあくまでも、安全な場所で・全容あるいは一部が明らかになった数歩先の未来から過去を見つめ・冷静な頭で導き出した回答だ。

それに対し、当事者は回答も準備もないまま、ある日突然その非日常にとらえられてしまう。

本書に記された被害者の言葉に概ね共通しているのは「まず、自分自身を疑った」ということである。
多くの人が被害の初期段階について「風邪を引いたのかも」「早起きしたから」「疲れているのかもしれない」と述懐している。
爆発物事件であれば音があり、衝撃があり、破壊の痕がある。
無差別殺傷事件であれば警戒があり、悲鳴があり、狂気がある。
生物を殺すためだけに作られたこの神経ガスは物を言わない。
(状況によっては)瞬時にそれとわかるような強烈な異臭も発さない。
自分の中の何かがおかしい。
周囲の人の様子も何かおかしい。
それなのに、向かいのホームの人々は平然と日常を送っている。
この「間違った世界」に投げ出された時、人はその要因を自分自身に求めてしまうのかもしれない。

社会に生きることは、信頼関係の中に生きることだ。
車の運転一つを例に挙げてみても、二台がすれ違える幅の道を、二つの鉄の塊が時速60kmですれ違う社会に我々は生きている。これもひとえに信頼関係があるからこそである。「相手はこのラインを超えてくることはない」と。

しかし時として、ラインを踏み越えてくる悪意がある。
ラインや悪意という概念すら持たない不条理が存在する。
そうした局面に立たされた者の本質的な肌感覚は、第三者にはわからない。
不条理は常に想像の域をはるかに超えているからだ。
それが日本史上に類を見ない毒ガステロであれば尚更である。

それでは第三者はここに記された証言から何を見出せば良いのだろうか。
冒頭で「知る意味」について戸惑いを感じたと書いたが、読了後、自分の考えにある変化(というか強化)が見られた。それは以下のようなことだ。

・報道やまとめサイトなどドラマティックで一面的な回答に自分の考えを委ねないこと
・ラインを踏み越えてくる不条理(あるいは悪意)は、誰の側にも常に存在しうること
・その悪意は、(たとえ無自覚であったとしても)間接的に自分も持っているかもしれないということ
・ある日、自分が誰かの人生を大きく変えてしまう側に立つことは、被害・加害に関わらず誰の身にも起こりうること

24年という年月は、長い。
記号としては過ぎ去った時間だが、少なからざる人が当時から継続した現在を生きている。
そしてそれは、決して「誰かの事件」ではない。誰の身にもいつでも起こりうる未来でもあるのだ。


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