服は高い服でも安い服でも結局どれも実用品だし、消耗品

私を含め、たいていの人間は後世に残るような服を着ているわけではなく、それぞれの用途、財力の範囲で既製品の中から服を選んで買って着ているわけである。

基本的には、着ていた衣服が後世に残るのは王族やセレブだけではないか。
それか、美術館に所蔵されるようなレベルのブランドの服なら後世に残る。
もっと細かいところをつけば、”ヴィンテージ”として価値が出るような作りの服ならヴィンテージ服市場というニッチな市場で残る。

あとは着用者が死ねばゴミになるようなものを着ているわけである。

よって我々は中古でも高く売れるようなものでない限り、自分が死ねばゴミになるものを着ているわけである。
おしゃれ着でも結局、服は消耗品なのである。

大事に扱うあまりほとんど着ないでいても、服は買取に出しても二束三文だし、フリマアプリに出しても服というものはなかなか売れない。
「一度人の手に渡った」というだけでまず価値が下がり、さらに「何年も前の服」だともっと価値は下落する。

<着るのがもったいないくらい大事な服でも最後は処分する>
2012年1月に、大学生だった当時の自分としては大枚はたいて、定価33600円のワンピースをセールで半額の16800円で買った。その頃好きだったBalconyの服である。
そのワンピース、着るのがもったいなくて全然着ずに何年も置いていたけれど、2015年のある日急に、人間はいつか死ぬんだから着ないともったいないということに気づいて、それからはハイペースで着まくった。
春夏には絶対着れないくらいの秋冬用デザインだったので、秋冬シーズンに週二、三回のペースで着ていた。
月日が経って、着はじめてから5年後、2020年1月のある日、急にもう満足してしまって、冬はまだ残っているけれども手洗いしてケースにしまった。そして春先、服を整理していて、もう着ないと悟って処分した。

そのワンピースは、メインが麻レーヨン、裾部分がポリエステル、装飾のフリル部分がシルクコットン。今ではレーヨンとかポリエステルの服は買わないので、今の自分なら買わない服だ。
買った時はその服に惚れ込んでいて、もったいなくて何年も着れないほどだったのに、普段着にして着倒して、その服から卒業して、自分の中で一時代が終わったような気がする。このワンピースは、ちょうど大学生最後の年に買って20代が終わるまで持ち続けていたので、ある意味自分の20代を象徴する服の一つである。気に入って着倒した服を処分して自分の一時代が終わった。

大事にしすぎて着なかったり、それを取り戻すかのように着倒して最後は飽きて、服というモノ、それも自分のために存在するものをそこまで“尊重”する自分の愚かさに気づいた

振り返ると、今はこの服を買った頃より自分が欲しくて自分に似合ってもいる服が手元に増えていて、それを考えるとありがたく、幸せな気持ち。

一方で、手に入れた時は宝物のように大事に思っていたのに、こうやっていつかは着なくなることを思うと、服というモノは美術品ではなく、実用品として使い捨てられる定めであることを実感した

このように、服というものは実用品、消耗品だけど、実用品で自分好みの美しさを追求できて、さらに身に纏って自分と一体化させられるのが服という存在の魅力なのである。
だから服が好きだし、服にこだわってしまう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?