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口語訳版『信条-個人と宇宙-』(ルドルフシュタイナー全集40巻„Wahrspruchworte“より)

理念の世界は、あらゆる存在の源であり、原理だ。その中には無限の調和と至福の静けさがある。理念の光に照らされない存在は、本質なき死せるものであり、宇宙全体の生命には与れない。理念から現存在を引き出すものだけが、万物の創造の木において意味を持つのだ。理念とは、自分自身の中で明晰であり、自分自身の中にあって、自分自身と一つになっている精神のことだ。個人は精神を内に持たなければ、枯れ葉のようにその木から落ち、無駄に存在したことになる。

しかし人間は、完全な意識に目覚めたとき、自分が個人として存在することを感じ、認識する。だがそれと同時に、理念への憧れが胸に植え付けられている。この憧れが人間を駆り立て、個別性を克服し、内なる精神を生き生きと蘇らせ、精神に適うようにさせるのだ。自分をこの特定の個別的な存在にしているもの、つまり利己的なものは、人間が自分の中で揚棄し、脱ぎ捨てなければならない。なぜならそれこそが、精神の光を曇らせるものだからだ。感覚、衝動、欲望、情熱から生じるものは、ただこの利己的な個人が欲するものだ。だから人間はこの利己的な意志を自分の中で殺さなければならない。個人として欲する代わりに、精神である理念が自分の中で欲するものを欲さなければならないのだ。個別性を手放して、あなたの内なる理念の声に従いなさい。それだけが神聖なのだから!個人として欲するものは、宇宙全体の規模からすれば価値のない、時の流れの中で消えていく点に過ぎない。「精神において」欲するものは、中心にある。なぜなら宇宙の中心の光が私たちの内に蘇るからだ。そのような行為は時間に支配されない。個人として行動すれば、私たちは宇宙の働きの閉じた連鎖から自分を締め出し、切り離すことになる。「精神において」行動すれば、私たちは普遍的な宇宙の働きの中に生きることになる。すべての利己心を殺すことが、より高い生命の基礎なのだ。なぜなら利己心を殺す者は、永遠の存在を生きるからだ。私たちは自分の中の利己心を死なせる度合いに応じて不死なのだ。私たちの中で死ぬべきものは利己心だ。これこそ「死ぬ前に死ななければ、死ぬときに滅びる」という言葉の本当の意味なのだ。つまり、生きている間に自分の中の利己心を止揚しない者は、不死の普遍的な生命には与れず、決して存在したことがなく、本当の存在を持たなかったということだ。

人間の活動には4つの領域があり、その中で人間は自分の生命をすべて殺して、精神に身を委ねる。それは認識、芸術、宗教、そして精神における人格への愛に満ちた献身だ。少なくともこの4つのうちの1つに生きていない者は、まったく生きていないのだ。認識は思想において宇宙に身を捧げることであり、芸術は直観において、宗教は心情において、は精神のすべての力をもって、宇宙全体の中で私たちにとって価値あるものとして現れる何かに身を捧げることだ。認識は最も精神的で、愛は無私の献身の最も美しい形なのだ。なぜなら愛は、日常生活の中で本当の天の光だからだ。敬虔で本当に精神的な愛は、その最も奥深いところまで私たちの存在を高貴にする。それは私たちの中に生きているすべてを高める。この純粋で敬虔な愛は、魂の生活全体を宇宙精神と関係のあるものに変容させる。この最高の意味で愛するということは、最もひどい利己心と不敬な情熱が見られるところに、神の生命の息吹を運ぶことを意味する。愛の神聖さについて何かを知らなければ、敬虔であることを語ることはできない。

人間が4つの領域のうちの1つを通して、個別性から出て、理念の神的な生命の中に生きるようになったとき、胸の中にある努力の芽生えが到達すべきところ、つまり精神との合一に到達したのだ。そしてこれこそが人間の本当の使命なのだ。しかし精神に生きる者は、自由に生きるのだ。なぜならすべての下位のものから自分を解放したからだ。自分が喜んで服従すると知っているもの以外、何ものも自分を強制することはできない。それを最高のものと認識したからだ。

真理を生命となしなさい。自分自身を失うことによって、宇宙精神の中に自分自身を再び見出しなさい!

出典:GA40 Wahrspruchwort http://bdn-steiner.ru/cat/ga/040.pdf p.15-17より

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