GA38『シュタイナー書簡集』より(2)

2.ヨーゼフ・ケック宛の手紙

ウィーン、1881年7月

 親愛なる友よ!
 君が何をしでかしたのかって?もし君が何かやらかしていたんだったら、君自身がそれを分かっているはずだ。でも、そもそも尋ねてきているってことは、おそらく何も分かってないんだね。で、とどのつまりはどうなの?僕が書かない理由は、そこにはまったく関係ないんだ。むしろ、僕がそういったことには首を突っ込めないってことなんだよ。いつか良きショーバーのところに行くことがあれば、僕がいかに少ししか会えないかを彼に聞いてみるといい。これは至極当然のことなんだ。僕は決して、人間の姿をした動物みたいに、その日暮らしをしている人間ってわけじゃないんだよ。むしろ僕は、はっきりとした目標、理想的な目標、真理の認識を追求しているんだ。でも、これを一足飛びに手に入れることはできない。むしろそのためには、世界で最も誠実な努力、利己心からは自由だが、諦念からも自由な努力が必要なんだ。君もよく知っているはずだ、レッシングの努力も後者からは自由ではなかったことを。自由な完全性と真の叡智への障害はとても大きくて、それらを想像するのはほとんど不可能だ。諸々の科学は装飾的表現と衒学的態度に満ちていて、健全な精神を拒絶するんだ。君もよく知っているはずだけど、本は、真理を認識し広めるために、いつも好んで書かれるわけじゃないんだよ。君に断言するよ、真理を求める努力の最もかすかな徴候でもあれば、それについての話はみんな、意味不明な言葉の連なりとナンセンスになっちゃうんだとね。残念なことに、社会状況がそんなふうなので、真実のそばで装飾的表現も身につけなきゃいけないってことなんだ。その上義務感もそれを求めるしね。だって僕たち人間は、何かを知っている時にしか、それを判断できないからさ。何かが臭いって言いたいなら、そのためにそれを嗅がなきゃならないっていうのと同じことだよ。
 それで君は今、何に取り組んでいるんだい?僕が君にお願いしたいのは、到達できない理想で自分を苦しめないでほしいってことだよ。むしろ到達できるものを目指してほしい。だって、断言するけど、到達できない理想をたわごとにしている時って、いつも変な自己満足が伴っているからね。僕も理想を目指しているけど、この言葉を最も高尚な意味で理解してね。でもよく覚えておいて。到達できるものをね。このことはさっきもちょっと触れたけども…。君もあまり人々を呪わないようにしてね。そしてペシミストにならないようにね。僕が君に言えるのは、人の悪意を責めるのはしばしば謂れがないってことだけさ。だって、たいていは、僕たちを苦しめるのは悪意じゃなくて、純粋な愚かさなんだし、それを誰かのせいにすることはできないんだからさ。

 またすぐに手紙を書いてくれ。住所はウィーン工科大学だからね。
 じゃあまたね、元気でね!

君の変わらぬ友
ルドルフ・シュタイナー

【註】
※1:ルドルフ・ショーバー:ルドルフ・シュタイナーのウィーナー・ノイシュタットの同級生であるルドルフ・ショーバー(『自伝』第4章参照)は、親密な友人であり、シュタイナーがワイマールに出発する(1890年)まで、ほぼ毎日一緒に過ごしていた。その後の訪問についても、ショーバーには常に知らされていた。彼を通じて何よりも、シュタイナーが『自伝』の中で名前を挙げなかった青年時代の友人たちの名前を知ることが可能になった。

【参考文献】
Rudolf Steiner:Briefe BandⅠ 1881-1890 p.16-17、p.279
http://bdn-steiner.ru/cat/ga/038.pdf

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