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生命のビッグバンとビッグクランチ-エヴァンゲリオンのストーリー一括総論-

(本ノートは、本文は無料で読むことができます。下部に「投げ銭チケット」がありますので、お気に召した折にはご購入頂ければ幸いです)

「リリンも解っているんだろう?A.T.フィールドは誰もが持っている心の壁だということを!」(渚カヲル)
「そんなの解らないよ、カヲルくん!」(碇シンジ)

 本論は、旧劇場版エヴァにおける、サードインパクト時のリリスと、抽象的な用語となっている「ガフの部屋」について、「生命の横溢」という点に関して、様々な観点から論じてみようとするものである。とはいってもそれぞれの観点からの考察が独立独歩しているというわけではない。これはそれぞれの論につながっているということをも提示してみようという試みでもある。

1.「ガフの部屋」と黒き月のリリス

 まずはユング-ノイマン的解釈における、無意識と自我意識の関係から、「ガフの部屋」がなんなのかについて論じてみよう。無意識が自我-胚芽を、「子宮の中の胎児のように完全に包み込んでいる段階」を、ユング心理学ではウロボロス的・プレーローマ的と呼ぶ。この段階では、まだ自我は意識-コンプレックスとしては姿を現しておらず、また意識-自我体系と無意識の間に緊張はない。この段階のことを「ウロボロス的」というのは、それがウロボロスのシンボル(円環状の蛇)が、支配的であり、このシンボルが完全な非分離を表している[=万物が万物に流入し、万物に依存し、万物と関連している]からである。そして「プレーローマ的」(グノーシス神話の用語)というのは、自我-胚芽がまだ「充溢」、形姿以前の神性の中にあり、意識がまだ誕生していないため、原卵・楽園の至福の中で「原状態にある」からである。無意識と自我意識の関係は、そのまま結合状態にある原両親のシュジュギアと子の関係に見立てられる。ウロボロスは「丸い容器」、原子宮のイメージとして現れるし、グノーシス神話のプレーローマも時に「子宮」と言い表されることがある。古代から、人間が「どこから」誕生するのか、生命や霊や魂がどこから来るのかという、起源への問いについての解答は、常に変わらず「子宮から」というのが普遍的な認識であった。新生児がみな子宮から生まれるというのは、人間の原体験だからである。無意識から自我が誕生するイメージは、そのまま子宮から子が誕生するイメージにたとえられる。旧エヴァにおいてはほとんど飾り付け程度にしか使われてないユダヤ神秘主義カバラの「エン・ソフ」も、ユング-ノイマン的にはこれらと同じに見立てることができる。

 さて、その旧エヴァにおいて、これらに該当している用語がある。それがヘブライ伝説における「ガフの部屋」である。 伝説によれば、この世に生まれてくる全ての子どもたちは、「ガフの部屋」から魂を授かって生まれてくるとされ、雀はその部屋から魂が降りてくる様子を見ることができ、その囀りは子どもが生まれる前兆だとされる。劇中では葛城ミサトがまるで鑑賞者のための解説者のような口振りで、人間が生命の源であるリリスから生まれた第拾八使徒だと口にしていた(これはカヲルの言葉で言えばリリンである)。そして、リリスはどこよりのものかといえば、それはその卵だと言われた黒き月であった。これは黒き月がリリス、及びそこから生まれたとされる人間を発生させたパンスペルミア(宇宙汎種)であるということができる。「ガフの部屋」もリリスも黒き月も、人間が「どこから誕生したのか?」という、起源への問いの行き着く解答として同じものであり、このことから「ガフの部屋」は、明らかに「原卵としての黒き月」及びその内のリリスの「子宮」であるといえるのである。詳細は後述に回すが、劇中終盤、補完計画が発動したときにおいて、リリスとその卵である黒き月の大きさは逆転し、黒き月を通してリリスの胎内に人々の魂が還っているために、一見、冬月の言っている「今更黒き月に還ろうとは思わない」というような言葉が宙に浮いているように思われる。しかし、リリスは元々が黒き月の内部のものであり、この点を考慮すれば、黒き月を通してリリスの胎内に魂が還っている様は、別に冬月の言葉とは何ら矛盾しない。リリスが巨大化して黒き月より大きくなり、黒き月の外側に位置するようになっていたとしても、内側と外側にあったものの位置が逆転しているだけだからである。

2.個体化の原理とA.T.フィールド

 次に「個体化の原理」について触れておきたい。「個体化の原理」とは、簡単にいえば、「宇宙の生命、或いは宇宙を突き動かしているエネルギーは、必ず個別化されて現れる」という原理であり、アリストテレス以来、ヨーロッパの哲学者たちが現代に到るまで、常に哲学の中心問題として論じてきた原理である。宇宙の存在が個別化されると、何一つをとっても同じものにはならない。似ているということはあっても、万物は個々において全く同じということがありえないのである。これは「種類」が明らかに異なっているということだけにとどまっておらず、同じ「種類」に分けられるものだとしても、その種類の中で個々に完全に同じものは存在しないということをいっている。たとえばライプニッツは、カッセルの宮廷の王女たちに「個体化の原理」について教える際に、同じ形をしている葉っぱを二枚持ってくるように命じたが、王女たちはどこを探しても同じ形をした葉っぱを見つけることなどできなかった。これをさしてライプニッツは「宇宙の個体化の原理は何一つ同じものを作らない」と王女たちに教えている。人間においても同じことがいえる。人間の顔つき、声、指紋、眼の色、歯並びなど、どれをとっても良いが、似ているということはあっても、全く同じなものは一つとしてないのである。以下、この節においては、この人間の「個体化の原理」と、エヴァの劇中において「心の壁」だと言われた「A.T.フィールド」とを、ユング心理学的に関連づけ、更にそれによって補完してみることにしよう(ストーリー初期に入れられていたA.T.フィールドと位相空間の関連性については極東博士氏による『使徒と光の巨人』を参照)。まずはA.T.フィールドにあるとされている三つの特徴を挙げておく。

①個体生命の身体組織全体の形状維持・保存
②個としての自我意識
③自我と他者との境界

 古来よりの多くの神話において、始原的な存在は、単一的で自己完結的な、対立物を包含する完全なる存在として描き出される。これは元型イメージとして捉えることができ、宇宙万物の発生ということの他に、人間の始祖とされる存在にも多く当てはまっている。この単一の状態に対して、「個体化の原理(神話においては神の意志などの何らかの作用)」が働き、単一のものが多なるものとなって分離し、万物が個体化している状態(根源的にはヘン・カイ・バン)は、不完全な存在として説明されることが多い。この「個体化の原理」による一から多へ、及び完全から不完全へという構図はまた、人間においてはまず至福・安息・横溢・融合・連続状態から苦悩・不安・欠乏・対立・非連続状態へという対比で語られる。ユング心理学においてこの個体化の原理は、人間の「心」(Psyche:意識と無意識の両方を含めた心的現象の総体)のウロボロス段階(「自己」を中心とする無意識の「魂(Seele)」-「精神(Geist)」の領域と、「自我」を中心とする意識の領域とが未分離で、なおかつそれが身体と結合して一体性をなしている段階)よりの自我意識体系の出現・分離と併せて語られる。

 ユング心理学における自己とは、人間における「内なる神」のことであり、複数からなる複合的な元型を統合する元型、あるいは元型そのものであり、無意識の「魂」-「精神」の領域の中心である以上に「心」全体の中心である。錬金術における賢者の石やウロボロスなどはその象徴的表現である。個体化の原理によって個体化されていく全ての人間の肉体の内には、自己が普遍的に内なる神として遍在している。しかしそれは人間の無意識領域の最も深奥部分・中心に沈んでいる状態(それを認識することがとても難しい状態)にあり、その中にしか生きていないために、現代の人間はおおかたそれを知らないでいる。ユングの高弟ノイマンは、「全体がその各部分を一つにまとめ、分化した各部分をまとまりを持った体系に統合しようとする傾向」のことを「中心志向:Zentroversion」と呼び、それが生物体において、「細胞生物体の諸細胞を結びつけ、分化した個々の細胞組織や器官などの協働を可能にする、生物体全体が持つ調整作用・補償的な平衡と組織化の傾向」として現れていると述べている。生物体全体の統一性は、この中心志向の支配下にある補償過程によって維持され、また、その全体は、中心志向に助けられて自らを創造的に広げる組織となるというのである。つまり、この中心志向は、「個体生命の身体組織全体の形状維持・保存とその個体の活動」を可能にしているものだといえる。

 ここでまず確認できるのは、「心」の壁・「心」の光とされるA.T.フィールドをユング-ノイマン的に解釈すると、A.T.フィールドが持っているとされる「個体生命の身体組織全体の形状維持・保存の機能」については、ノイマンの言う中心志向によって説明できるということである。心的段階の最も原初的な段階であるウロボロス段階は、未だ意識がゼロの状態であって、「心」が身体的な出来事と完全に同一化しており、それに支配されている。即ち、それは主体/客体の区別が未だない状態である。この段階においては、「個体生命の身体組織全体の形状維持・保存と、その個体の身体的な出来事に応じた活動(「食物ウロボロス」のシンボルに表れているように、ウロボロス段階において最大の関心事・欲求となっているのは養分に関わることである。つまり、主には空腹に伴う食物の摂取とその排泄、代謝機能が該当している)」を可能にしている中心志向の所在は、無意識の自己にある。それ故、「心」と身体が完全に融即状態にあり、身体的な出来事に完全に支配されているこのウロボロス段階は「身体-自己」段階とも呼ばれている。ある個人のウロボロス段階においては、まだ自我意識の領域が発生する以前であるから、A.T.フィールドの特徴である「個としての自我意識」の意味はまだない。また同時に、この段階においては主体/客体の区別がされておらず、その対立がない状態であるから、「自我と他者との境界」としての意味もまだその個人において認識されていない。しかし「個体生命の身体組織全体の形状維持・保存」に関しては、既にこのウロボロス段階の時点でも無意識の自己にある中心志向によって機能しているものだといえるだろう。

 さて、このウロボロス段階から自我意識の領域が出現するわけだが、この領域を発生・発達させるのは、無意識の自己を構成する中心的な要素といえる「精神」(Geist)だと考えられている。「精神」には三つの固有の性質がある。第一に「自発的な運動と活動の原理」、第二に「感覚的な知覚とは独立に自由にイメージを創出する特性」、第三に「そのイメージを自律的に思うがままに操ること」である。「精神」を象徴するものはたとえば『創世記』の神の霊(エロヒームのルーアッハ)の「創造するロゴス」「生命の息吹」、『ティマイオス』の原初的な宇宙の第一運動(自己回転する球体)などが当てはまる。この精神の持っている「創造する原理」による意識領域の発生は、あらゆる神話・哲学において、光の発生などと共に始まる時間と空間の生成、即ち宇宙開闢或いは世界創造に関する記述に表れている。自我意識の領域が発生・発達して区別がなされる時、自我意識は外的世界や内的世界(無意識)との対決の中に入っていき、「他-在」を体験する。「他-在」とは、自我ではないそれ以外のもの、即ち「非自我」なるもののことであり、「他-在」を体験するとは、自我が「非自我」なるものに向き合い、それを自我とは違う境界を挟んだ「他なるもの」として体験することをさしている(「時間と空間の生成」に関する話でいえば、それは厳密に言えば時間と空間を「他-在」のものとして体験し、対象化することと関連している)。自我意識の発生によって、世界が主体/客体の対立へと分けられ、客体は差異化される。自我意識はあらゆる客体との対立関係の中に入っていくのである。まず自我意識にとっての客体、即ち「他-在」は大きく分けて内的世界(無意識)と外的世界の二つに分けられる。自我意識は、一方で無意識の自己-身体と対決する内向的態度をとり、他方で外的世界に対決する外向的態度をとる。

 ユングは、脳脊髄機能が最高にまで行き着くと自我意識の明確さを結晶させるという。自我意識が大脳皮質(頭部)に座を占めて、自分の身体をよそよそしいものとして、またそれを自我意識に働きかけてくる別世界のものとして(つまり自分の身体を「他-在」として)体験するとき、自我意識は自分の身体が、自分の意志や恣意によって服従することを認識し始める。初期の自我意識は、まだウロボロス(無意識)に圧倒されている状態であり、身体との関わりで言い換えてみるならば、これは身体的な出来事、即ち身体界に発する本能・衝動・感覚・反応の世界によって圧倒されている状態である。しかし、自我意識が発達して組織化されていき、無意識的な過程を代表する身体から切り離されていく過程の中で、この身体界に発する諸々の世界は、自我意識と対立しつつ自我意識によって統御されるようになっていく。ノイマンは、こうした自我意識が発生し、発達していく過程において、中心志向が無意識の自己から自我意識へと移行すると述べている。意識領域の中心である自我は、その最初の機能として、無意識の自己から中心志向を受け継ぎ、身体的な出来事を統御しつつ身体組織全体の形状を維持・保存する代理器官として働くのである。中心志向の自我への移行が決定的となる人生前半・思春期おいて、この自我の中心志向は、意識と無意識の両体系の補償的関係として姿を現す。自分自身が関係の網の目の中に投げ込まれていて、他者と分け隔てられた非連続的な個体だと知覚できるようになるのも、それと知覚できる知覚器官であるこの自我意識の領域が出現してからである。自我の中心志向はまた、あらゆる外的対象(他者)と自分自身との間の平衡をも図りつつ、外的・内的問わず両対象を利用しながら、個体化された全体の中で、個体の確立を目指す働きをも持つ。しかし、これまでに示した中心志向のこれら全ての働きは、この人生前半・思春期においては意識化されていない。この時期の自我は、中心志向の中枢機能でありながら、関係の網の目の中に投げ込まれていて、そのあらゆる客体からなる全体に依存していることにも少しも気づいていないのである。

 さて、長くなったが、ここまでの説明によってA.T.フィールドの三つの特徴が全て説明できるだろう。まず、既に述べたように、A.T.フィールドの「個体生命の身体組織全体の形状維持・保存の機能」については、中心志向によって説明できるということ。これはまず「心」のウロボロス段階においては無意識の自己の内にあるということ。次に「精神」原理によって「個としての自我意識」が発生・発達するということ。この自我意識の発生・発達に伴って、中心志向が自我へと移行するということ。そして自我意識の発生は、同時に主体/客体の区別のない状態から、「他-在」の体験によって主体/客体の区別のある状態への移行を意味し、「自我と他者との境界」が生じるということ。そして自我の中心志向は、あらゆる客体全体の中での個体の確立を目指す働きを持っているということ。以上である。そして余談だが、人生前半・思春期の時期における自我が、中心志向の中枢機能でありながら、その働きについて全く意識しておらず、無自覚のままであったということを露呈させている例といえるのが、「リリンも解っているんだろう?A.T.フィールドとは誰もが持っている心の壁であるということを!」という渚カヲルに対して「そんなの解らないよ!」と答えている碇シンジだと当てはめてみるのも一興ではないだろうか。

3.エントロピーとネゲントロピーについて

 ところで、このノイマンの中心志向とA.T.フィールドに関する話を、別の見方で、即ち熱力学の第二法則である「エントロピーの原理」及びE・シュレーディンガーのいう「ネガティヴ・エントロピー」についての考察から解釈してみることにしよう。熱力学の第二法則は、「孤立したシステムのエントロピーは時間と共に増大する(あるいは、可逆的なシステムでは一定に保たれる)」と主張する。では、エントロピーとは何なのか。それはあるシステムにおける「あからさまな無秩序のある種の尺度」である。エントロピーとは朦朧たる概念(もしくは観念)ではなく、一本の棒の長さや、一つの物体の任意の点の温度や、与えられた一つの結晶の融解熱や、与えられた任意の物質の比熱などと全く同様の、一つの測定することのできる物理学的な量である。シュレーディンガーは、エントロピーを考える上で重要なのは、エントロピーの秩序・無秩序の統計的概念との関連だと言っている。エントロピーと秩序・無秩序の統計的概念を結ぶ関係は正確な量的なものであって、シュレーディンガーにおいてそれは次の式によって表される。

エントロピー=κ log D(単位はcal/℃或いはJ/K)※底e省略
κ=ボルツマン定数[=3.2983×10^-24cal/℃(ほぼ10^-23J/K)]
D=問題とするシステムの原子的な無秩序さの程度を示す目安となる量
底e=ネイピア数[=2.7182818285…という超越数。e=1+1/1+1/(1×2)+1/(1×2×3)…]

※x=log Dとすると、D=e^x=1+x/1+x2/(1×2)+x3/(1×2×3)… となることがわかっている。

 シュレーディンガーは、Dという量を簡単に専門的な述語を使わずに正確に説明することはほとんど不可能だといっている。このDの示す無秩序は、一部分は熱運動の無秩序であり、一部分は、異なる種類のシステムの原子または分子がきちんと別々に分離しておらず、でたらめに混ぜ合わされていることに由来する無秩序である。

「絶対温度零度(0K=-273℃)では、どんなシステムのエントロピーもゼロである。あるシステムを、ゆっくりと一歩一歩可逆的な小刻みな変化を行わせながら任意の別の状態に持ってくるとき(その際、たとえその物質が物理的及び化学的性質の異なる二つまたはもっと多数の部分に分割されても)、エントロピーは或る一定量だけ増す。エントロピーの増加量を計算するには、このような変化を進めてゆくとき供給しなければならない熱の各小部分の量を、それが供給されるときの絶対温度の値で割って、それらの小さな量の全部を加え合わせればよい。一例を挙げると、一つの固体を溶かす時には、そのエントロピーは融解熱を融解点の温度(絶対温度)で割った量だけ増加する。」(E・シュレーディンガー『生命とは何か』)

 あるシステムに熱を供給すると、熱運動の混乱が生じる。これについて解りやすい例を挙げるとすれば、熱の供給によって結晶を溶かすということを見ればよい。結晶を溶かすというのは、その結晶の原子または分子のきちんとした永続的な配列が熱の供給によって破壊されて、結晶格子から絶えず変化するでたらめな分布へと変わることだからである。無秩序さを表しているDが増すということを意味する。Dが増すということは、それと共にDの対数であるlog Dも大きくなるということであるから、それだけエントロピーが増すということでもあるわけだ。同じことは、異なる種類のシステムの原子または分子がでたらめに混ぜ合わさるときにも同じことが言える。たとえば、砂糖と水という異なる種類のシステムを用意して、砂糖を水に溶かし、砂糖の分子と水の分子がでたらめに混ぜ合わされている状態をつくる。砂糖がそこにある水全体に徐々に広がっていくと、この場合もDが増すのでエントロピーが増すことになる。

 さて、このエントロピーの原理は、「生きている生物体」の、目で見える程度の大きさの行動に対してどのような意義を持っているのだろうか。それを知るためには、まず「個体生命がその身体組織全体の形状を維持・保存しえていること」に着目する必要がある。

「生命というものだけにある特徴は何か。一塊の物質はどういうときに生きていると言われるのか。生きているときには、動くとか周囲の環境と物質を交換するなど、「何かすること」を続けており、しかもそれは生命を持っていない一塊の物質が同じような条件の下で「運動を続ける」だろうと期待される期間よりもはるかに長い期間に渡って続けられる。生きていない一つの物質系が外界から隔離されるか或いは一様な環境の中に置かれるときには、通常はすべての運動がいろいろな種類の摩擦のために甚だ急速に止んで静止状態になり、電位差や化学ポテンシャルの差は均されて一様になり、化合物を作る傾向のあるものは化合物になり、温度は熱伝導により一様になる。その挙句には系全体が衰えきって、自力では動けない死んだ物質の塊になる。目に見える現象は何一つ起こらない或る永久に続く状態に到達するわけである。物理学者はこれを熱力学的平衡状態、或いは「エントロピー最大」の状態と呼んでいる」(E・シュレーディンガー『生命とは何か』)

 実際的には、「外界から隔離されるか或いは一様な環境に置かれた孤立した物質系(システム)」は、甚だ急速にこの「エントロピー最大」の状態[=絶対的な平衡状態]に達するはずなのだが、理論的にはそうでない場合が非常に多い。この場合、エントロピー最大の状態へと近づいていく最後の歩みは甚だ遅く、相当に時間がかかる。生命を持っているもの、即ち生物体は後者に該当している。孤立したシステムである個体生命の身体組織全体は、急速に崩壊して自分の力では動けなくなってしまう状態になるのを免れて、有限であるとはいえ、「物質代謝」(英:metabolism)によって、長い時間に渡ってその形状を維持・保存しえている。「物質代謝」とは、養分(食物であれ飲み物であれ)の摂取及び排泄や、呼吸(異化作用)などのことである(植物の場合、光合成(同化作用)も含まれる)。基本的には無生物と同じように、生きている生物体も、常にエントロピーを増大させている(或いは別の言い方をすれば「正の量のエントロピーを作り出している」)。そしてもはや自分の力では動けなくなってしまう状態、即ち死の状態を意味するエントロピー最大の状態という危険な状態に近づいていく傾向がある。生物体が孤立したシステムとして生きているためには、エントロピーを低い状態に保っておかなければならない。シュレーディンガーは、生物体がそのシステムのエントロピーを低い状態に保っておく唯一の方法とは、周囲の環境から「ネガティヴ・エントロピー」(以下ネゲントロピー)を絶えず取り入れることにあると説明している。物質代謝において生物体が生きるために取り入れるもの(つまり食べるもの・飲むもの・吸うものなど)とは、このネゲントロピーなのである。シュレーディンガー曰く、物質代謝の本質は、「生物体が生きているときにはどうしてもつくり出さざるをえないエントロピーを全部うまい具合に外へ棄てるということにある」。ネゲントロピーを取り入れ、それによってエントロピーを相殺する(或いは外へ棄てる)物質代謝は、生物体が孤立したシステムとして生きているための、即ち急速に死[=エントロピー最大]の状態にならないようにするための、唯一の方法なのである。

 シュレーディンガーは、生物体が崩壊して死[=エントロピー最大]の状態へと向かうのを遅らせているネゲントロピーについて、これを統計的理念的に表すために、「エントロピー=κ log D」という式に対してこう表している。

-(エントロピー)=κ log(1/D)

 ネゲントロピーとは、負の符号をつけたエントロピーである。1/Dの対数はちょうどDの対数に負の符号をつけたものである。そして「エントロピー=κ log D」のDが、あるシステムにおける無秩序の目安となる量だとすれば、その逆数1/Dは、逆に秩序の大小を直接表す量だということになる。エントロピーの増大が、自然に混乱状態へと近づいていく傾向であり、生物体の孤立したシステムの無秩序化、即ち個体生命の身体組織全体を崩壊させることへと向かわせるのに対して、ネゲントロピーはその孤立したシステムを崩壊させないよう、そのシステムの低エントロピー状態を維持すること、即ち個体生命の身体組織全体を常に一定の、それもかなり高い水準の秩序状態に維持するものであるということができるのである。繰り返すが、シュレーディンガーの説明に基づけば、生物体はこのネゲントロピーを、即ち「秩序」を、その生物体の周囲の環境から絶えず取り入れることによって、その形状を維持・保存することが出来ているのである。

 このエントロピーとネゲントロピーについての説明は、ノイマンの言う中心志向と併せてみることができるだろう。中心志向は、ウロボロス段階においては無意識の自己にあり、その中枢機能としては個体生命の身体組織全体の形状維持・保存の機能があり、自我が生じて発達してからは、この中心志向の機能が自我に受け継がれる。更に自我の中心志向には、あらゆる客体全体の中での個体の確立を目指す働きがある。そしてウロボロス段階と特に密接な関係にある「食物ウロボロス」のシンボルに見られるように、ウロボロス段階の頃から、その生物体の形状を維持・保存するためには物質代謝が欠かせないということが言える。そして、これまでの説明で見たとおり、この物質代謝の能力は、シュレーディンガーのいう、生物体が外界からネゲントロピー(秩序)を取り入れてエントロピー(無秩序)を相殺する能力、即ち生物体が周囲の環境の中でその孤立したシステムを維持・保存することを可能にする能力であった。これらのことからノイマンの説明している中心志向の中枢機能である個体生命の身体組織全体の形状維持・保存の機能及びあらゆる客体全体の中での個体の確立を目指す機能には、シュレーディンガーの説明しているネゲントロピーの取り入れが不可欠だといえるのである。

4.劇中に用いられている〈原罪〉と〈贖罪〉の意味について-カバラ神話的解釈-

 第2節で見たことをもう一度振り返ってみよう。ウロボロス状態[=無意識状態]から自我意識が発生し、発達していく、という過程はどういうことであったか。それは主体である自我意識が、あらゆる客体との対立関係の中に入っていくということであり、主体/客体の区別がない状態からその区別が明確になっていくということだった。このようなウロボロス状態とは、ユング心理学においては「神秘的融即」に同義であり、「母子一体の原関係[=融即]状態(これは第2節に即して言うならば、子どもの「身体=自己」が母親の「身体=自己」と融即している)というに等しい。この母子一体の状態は、同時に父子一体でもある。子どもはウロボロス段階においては両親と一体なのである。なぜなら、父及び母を子が区別して認識し得るようになるのは、自我意識が発達して、主体/客体の対立を明確に区別しうるようになってからだからだ。ウロボロス段階からの自我意識の発生と両親の区別(父と母の区別)の発生は表裏一体なのである。この自我意識の発生と両親の区別発生は、神話においては「原両親を分離する子の英雄的活動」として描かれる。この原両親を分離する子どもの自我意識の英雄的活動は、ウロボロスの優位に対する抵抗・防御から生じる。これは大まかにウロボロス段階から少年段階への移行として説明されるもので、自我意識がウロボロスに対して受動的であることから能動的であろうとする変化が見られる時期でもある。少年-自我意識の英雄的活動は、業であり、戦いであり、創造行為である。このことは少年-自我意識の発達・成長過程において、重要かつ避けられないものである。ユング心理学、とりわけノイマンの『意識の起源史』においては、これを少年-英雄の「龍との戦い」と呼んでいる。

 この「龍との戦い」を、主人公碇シンジの個体化の過程としての心的-神話的ドラマないし『エヴァ』のストーリーそのものに当てはめて考察することもできよう。しかしここでは『エヴァ』の世界観における〈原罪〉についての考察をしておこうと思う。なぜなら、ノイマンによれば〈原罪〉とは、少年-自我意識の業[=原両親の分離・神秘的融即の状態からの脱却]の結果として体験されるネガティヴなものに該当するからであり、このことが「龍との戦い」を乗り越えられるか、それとも失敗に終わるかの分岐点に直接関係してくるからである。ただし、ここでまた断っておかなければならないことがある。通常、私たちが〈原罪〉と聞くと真っ先に浮かび上がるのは、ユダヤ-キリスト教のそれだと思う。また、『エヴァ』において用いられているこの〈原罪〉の語法を、その意味について全く触れずに、ユダヤ-キリスト教的なものだとだけ言う人も目にする。このあたりがさらに、ゼーレとネルフの思想の違いとして、彼らの劇中における対立があたかもユダヤ教とキリスト教の対立であるというような飛躍に結びつき、語法だけが空中浮遊して語られる場合も存在する。しかしユング心理学的観察眼に基づいては、ユダヤ-キリスト教の〈原罪〉をそのまま『エヴァ』に適用するのが妥当であるとは考えられない。また、ゼーレとネルフの対立についても、そこにあるのは主導権争いだけで、彼らの間に思想的差異は存在しないと思われる。ノイマンによると、「善悪の識別を得たこと」が最初の罪だとするユダヤ-キリスト教における〈原罪〉は、それ以前のもっと古い神話的モチーフ、つまり無意識の「魂(Seele)」のヌミノースな激情が生み出した更に古い〈原罪〉の意味に、意識的に手を加えられたものであり、意味を変えられているという。ユダヤ-キリスト教においては、意識と道徳を重んじるが故に、常に神話化と無意識の「魂(Seele)」の領域とを徹底的に排除しようとしてきたため、そこでは無意識の「魂(Seele)」のヌミノースな激情的性格を伴った自我意識の英雄的活動としての原両親の分離と〈原罪〉という神話のモチーフは名残をとどめているにすぎないというのである。ユング心理学的観察眼に基づく私としてはこう申し上げたい。即ち、『エヴァ』における〈原罪〉の語法に関しては、ゼーレであろうとネルフであろうと、古い神話のモチーフが見いだせる、ユダヤ神秘主義カバラの神話の〈原罪〉概念に照らし合わせた方が妥当である、と。では、ノイマンの言う古い神話のモチーフにおける〈原罪〉とはどのように発生したのだろうか。また、その古いモチーフが継承されたユダヤ神秘主義カバラの〈原罪〉とはどのように説明され、それがどのように『エヴァ』と照らし合わせられるのか。

 少年-自我意識の英雄的活動は、そのまま主体/客体の認識、個体の認識の明確化を意味している。その認識において自我意識は、自分が関係の網の目の中に投げ込まれ、世界のありとあらゆる客体と対立する、孤独で引き裂かれた存在だと感じられるような状態に陥る。孤独ばかりではない。苦悩・労働・苦難・悪・病気・死といった人間にとってマイナスのものもまた、自我意識によって知覚されるがゆえに姿を現す。自我意識の発生・発達によって、自分のまわりを取り囲むひとつの大きなものが生を調整し、この取り囲むものに身をゆだねるのが当たり前であった楽園的とも言えた状況が終わりを告げるのである。かつて当たり前であったウロボロス段階の楽園的な状況に気づくと、自我意識は同時にこうしたマイナスのものにも気づき、そのマイナスのものを自らと関連付ける。自我意識は自らをマイナスのものを関連付け、自我意識の成立そのものが罪であり、苦悩・病気・死を罰であるとみなすようになる。ウロボロス段階から少年段階への移行の初期において、かつての楽園状況[=神秘的融即の状態]への郷愁が生じ、「快と苦」の二元論が生じるのである。この快苦二元論はそのまま善悪二元論にも直結している。宗教的には、この快苦-善悪二元論は、神秘的融即の状態が神自身によって導かれていた状況であり、倫理的には全てがまだ善であり、いかなる悪も存在しなかった状況として表現されている。この在り方を「永遠の生」即ち不死として性格付けている神話もある。この古い神話のモチーフにおける〈原罪〉には、苦悩と楽園喪失[=神秘的融即の状態の喪失]に対する「魂(Seele)」のヌミノースな激情の性格がつきまとっており、それは、自我意識がその業によって原両親を分離し、創造によってえたものを全く帳消しにしてしまうほどのものがある、ということに特に留意しておく必要がある。このことは、ニーチェ的に言い直すならば、不断の生成としての〈力への意志〉の否定であり、弱者のルサンチマンからの「虚無への意志」だということになるだろう。

 この古い神話における〈原罪〉につきまとう無意識の「魂(Seele)」の元型的なイメージがどれほど強力なものなのかを、私たちはユダヤ神秘主義カバラの神話に見出すことができる。先述したように、ユダヤ教においては意識と道徳が重んじられたために、無意識の「魂(Seele)」の領域が排除されてきた。しかしユダヤの秘教であり、ユダヤ教の中に本来生きているが隠されている生命線、それがカバラの中には補償的な逆の動きとして貫かれてきた。カバラにおける〈原罪〉とは、「神性に汚点をつけた行為」とされる。これには諸説あるが、最も承認されている説は、「最初の人間アダム・カドモンが、三位性からなるおのれを王[=第一の位格「隠れたる老いたる王」及び第二の位格「聖なる王」]と女王[=第三位格「シェキナー(神の花嫁)」]とに分離して、この王の伴侶たる女王シェキナーを、セフィロートの全序列から切り離したこと」である。カバラによれば、最初の人間アダム・カドモンとは、隠れたる神「エン・ソフ」そのものが具現化したもの、即ち神そのものの写し身としての原人間(アントローポス)であり、その身体はセフィロート全体に基づいて構成されているとされる。もう一度言いなおせば、カバラにおけるアダム・カドモンのこの〈原罪〉とは、神における男性的原理(王)と女性的原理(女王)の分離であるが、それは巨大な統一状態にあったセフィロートの全体を瞑想しながら洞察すべきところを、アダム・カドモンがもっと安易な道をとったがために生じたとされる。神における女性的原理であるシェキナーは、最後のセフィラー、即ち第十セフィラー・マルクト(王国)であり、物質界における「神の臨在」であり、イスラエル全会衆(エクレシア)の母であると同時に、イスラエル全会衆そのもの、及びその魂(ネシャマー或いはプシュケー)の全体とも同一視されている。アダム・カドモンは他のセフィロートとは切り離して、この最後のセフィラーだけを神として瞑想した。まだ神の秘密の生命に支配されていたすべての世界に、神的営為の統一性を確認し、また自分自身の営為によってその統一性を裏付けるべきところを、アダム・カドモンはそうせずに、最後のセフィラーだけ引き裂いてしまったのである。

 (上図はシェキナー)

 このアダム・カドモンの〈原罪〉は、そのままシェキナーのもつ「両面性」とその「流謫」という話に直結している。シェキナーにはそれ以前のセフィロートの全てが総括されている。また、シェキナーの媒介によって、それ以前のセフィロートが初めて、下位の世界(神の外の世界である物質界)へ効力を及ぼす。シェキナーそれ自体は純粋に受け入れるだけの、それ自身なにひとつ所持するもののないものである。このシェキナーにおいて、「恩寵」の支配力と「裁き」の支配力が交互に優位を争いながら作用を及ぼしている。これがシェキナーの「両面性」である。シェキナーは大抵、「恩寵」の支配力が優位にあり、慈悲に満ちたイスラエル全会衆の母として現れる。しかしその反面、「裁き」の支配力が肥大化してくると、シェキナーはおぞましい表情を示すことがある。神の内部における「裁き」の支配力とは、形而上的実在(形をもっていない理念的なもの)としての悪の起源であって、この支配力が肥大化すると悪が生じる。この状態においては、シェキナーそれ自体が裁き罰する支配力を担うものと化す。しかしこの「裁き」の支配力についてはもう一つ留意点がある。それは「裁き」のセフィラー・ゲブラから流出して独立し、形而下的実在(現象的世界において形をとって存在するもの)として、独自の現実的存在を獲得した悪魔的諸支配力が、シェキナーの外部からその中に侵入し、シェキナーを拘束している状態というものがあるということだ。この悪魔的諸支配力は、カバラにおいて「裏側」とか「ケリーポート」(ヘブライ語で「殻ども」、或いは「樹皮ども」の意。単数形は「ケリーパー」)などと呼ばれている。このケリーポートがいかにして現実的存在を獲得したかということについては、カバラの諸書、とりわけルーリア及びその学派において、セフィロートにおける「容器の破裂」という形で起こったと説明される。G・ショーレムは、この「容器の破裂」がカバラにおいて必要性を帯びているものであり、その第一の理由がカタルシス的なものであると指摘する。カバラにおける悪と闇の勢力であるケリーポートの最も深い根は、「容器の破裂」までは、既に述べたように形而上的実在として、初めから神の内部において存在していた。ケリーポートは初めセフィロートの光や「エン・ソフ」の残滓と原空間のなかでごちゃまぜに混ざり合っていたのである。従って、セフィロートの諸要素と形成される容器を、ケリーポートとの悪しき混在から純化する必要性が生じたのである。「容器の破裂」の目的は、セフィロートから形而上的実在としてのケリーポートを根こそぎ形而下的実在として、即ち現実の力を持ったものとして生じさせることにあったという。これをショーレムはカタルシス的だと言っているのである。そしてセフィロートから除去されたそれらケリーポートは独立的な存在として、シェキナーの内部に侵入する。このケリーポートに拘束されているシェキナーは、苦い「裏側」の世界を味わうとされる。ケリーポートは、シェキナーの領域に侵入して破壊的な力をふるい、シェキナーを隷属させ、自分たちの「裁き」の活動に仕えさせようとする。シェキナーにおいては、このセフィロートを清浄化したことによって生じさせたケリーポートの「裁き」の活動に対抗し、それら全てを打ち砕くことが試練となる。

 次に、このシェキナーの両面的な諸相という考え方が、既にシェキナーの「流謫」という観念に関連していることについて触れておく。カバラにおけるこのシェキナーの「流謫」という観念には、「神の臨在」とはいついかなるときも流謫するイスラエルとともにあるという、『タルムード』からの考え方以上の意味を持っている。それは「神自身のある部分が神自身によって流謫させられている」という意味である。これがそもそも王と女王の分離と、その女王の父王による追放とか、シェキナーが裏側の世界=ケリーポートに支配された状態に重ねられて説明されているのである。

 これまで述べてきたこと、即ちカバラにおける王と女王の分離、シェキナーの「両面性」とその「流謫」、そしてシェキナーがケリーポートに支配されているといったこと全ては、アダム・カドモンの〈原罪〉の象徴そのものであるといえる。このカバラの神話は数多くの象徴を用いて描かれる。たとえば、生命の樹と智慧の樹(死の樹)が分離するといった表現や、欠けた月、光なき光の受け手という月の様態といった表現で描かれる。このカバラ神話におけるこのアダム・カドモンの〈原罪〉の象徴の全ては、克服されるべき悪であること、即ち〈贖罪〉すべきこととみなされる。それこそがカバラにおける宗教的意義であり、救済の目標でもある。それはシェキナーの「流謫」を再び終止させるべく準備活動を始め、「流謫」を終止させ、分離し対立状態となってしまった神の男性的原理(王)と女性的原理(女王・シェキナー)の再結合によって、即ち神秘的合一によってなしうるとみなされるのである。このカバラにおける最終目的となる王と女王の再結合は、旧約聖書『雅歌』の三つの解釈の家の一つによる裏付けがなされているということも付記しておく。これがなされたあかつきには、その結合による生殖力によって、再び全ての世界が神の秘密の生命に支配されていた状態[=不死・永遠の生]を回復させることができるというわけだ。このためには「裏側の世界」のものであり、シェキナーをその「裁き」の活動に仕えさせ、隷属させようとするケリーポートと戦い、それらを全て打破しなければならない。「人間は創造の最終目的であるばかりではなく、また人間の支配は此岸に、即ちこの世に限られるばかりでなく、より高い世界の完成及び神の完成さえも人間にかかっている」という、アリのカバラに収められた悪に関する教えについての注釈は、これまでの説明を総括的に著している。カバラにおける〈贖罪〉及び神秘的合一に向けての活動は、極めて人間=シェキナーが中心的な神話であるが、同時に、神自身のある部分である人間が、神の完成の為に奉仕するという、その主体の行動は客体的である。即ち神の男性的原理たる王に支配されている被支配者でもあるのだ(こうした人間の行動原理自体が女性的原理である)。なお、余談ではあるが、ユングは、隠れたる神「エン・ソフ」とその写し身としてのアダム・カドモンを自己元型とその象徴的表現という対応で見ており、この王と女王の分離に始まるカバラの〈原罪〉からその克服である〈贖罪〉としての王と女王の結合という神話の流れを、人間の個体化の変容過程そのものを表わしていると指摘していることも付記しておきたい。

 こうしたカバラ神話の〈原罪〉にまつわる内容を、ユング心理学では、人間の無意識の「魂(Seele)」の領域が、ある外的要因に際して描き出したもの、即ち元型のヌミノースな激情が描き出したとみなしているのであり、同じことがそのまま『エヴァ』においても当てはめられる。ではカバラのこの神話は『エヴァ』においてどのように当てはめられるであろうか。それを『エヴァ』において描き出されているストーリー内容理解及び象徴的理解から描き出してみよう。まず『エヴァ』の世界観においてストーリー全体を支配している〈原罪〉の観念についてだが、これは仮説的にではあるが、そのままカバラにおける王と女王の分離に相当するものがあったと仮定できる。『エヴァ』におけるアダムとリリスは、そのままそれぞれカバラ神話のこの王と女王にあてはめて考えることができると思われるからだ。『エヴァ』においては、アダムとリリスが元来結合物であったという直接的な説明はない。しかし、ネルフの碇ゲンドウは「アダムとリリスの禁じられた融合」をなそうとし、そして「全ての人間を一つにする」といい、それを「全てを始まりに戻すこと」とみなしていると考えられる(ストーリーは分岐しているが、根本的にそこに差異があるとは思えない)。ゼーレについても実は同じことを行おうとしたということが仮定できる。なぜなら彼らは結果的にアダムとリリスの融合物となった巨大な綾波レイ(及び渚カヲル)を、その補完計画の実践上、否定してはいないからである。あくまでも彼らの争いは主導権争いに過ぎないのである(詳細は『ゼーレVSネルフ総括的解釈』を参照)。

 この「アダムとリリスの禁じられた融合」を、カバラにおける〈贖罪〉としての「王と女王(シェキナー)の再結合」だとみなすことは十分可能である。なぜなら、ゼーレとネルフの補完計画に本質的に差異がなく、またその計画実践によって以上の表に挙げられていることが〈贖罪〉だとみなされている以上、どちらの行動も根本的にはカバラにおける、分離された王と女王の再結合によって、〈原罪〉の克服としての「全てを始まりに戻す作業」を行う〈贖罪〉の観念が適用できるからである。また、カバラにおいて王が生命の樹、女王が智慧の樹という象徴的表現でもって語られ、その王と女王の分離がそのまま生命の樹と智慧の樹の分離という形で語られることが、『エヴァ』の劇中において生命の実を宿しているアダム、及び智慧の実を宿しているリリスという説明に照らし合わせることができる。この象徴的表現の理解からしても、アダムはそのまま王=生命の樹であり、リリスはそのまま女王シェキナー=智慧の樹とみなせるのである。このように『エヴァ』における象徴的表現をカバラ神話的に解釈しても、劇中において対立的な二者として登場するアダムとリリスが、元は隠れたる神「エン・ソフ」そのものの写し身として具現化した原人間アダム・カドモンの如き一者であったと仮定することが可能なのだ。キール曰くの「始まりと終わりは同じところにある」というのもこの仮定をより裏付けるものということができるだろう。そして女王シェキナーは、イスラエル全会衆(エクレシア)の母であると同時に、物質界における「神の臨在」であり、イスラエル全会衆そのもの、及びその魂の全体とも同一視されていたということを想起しよう。これはそのままそれぞれ、『エヴァ』におけるリリス、人間(第拾八使徒リリン)、及びその人間全体の魂だと当てはめて考えることができる。したがって全てが元はひとつであったということを仮定することの一助となる。上記に挙げた、「人間は創造の最終目的であるばかりではなく、また人間の支配は此岸に、即ちこの世に限られるばかりでなく、より高い世界の完成及び神の完成さえも人間にかかっている」という、アリのカバラに収められた悪に関する教えについての注釈も、上の対立表に即応しているといえるだろう。王と女王が分離された状態にあるエヴァの世界においては、その分離された行為の結果として、人間は生まれながらにして〈原罪〉を帯びた存在だとみなされているわけである。

 象徴的表現に関してさらに言えば、『エヴァ』におけるアダムの卵が「白き月」、リリスの卵が「黒き月」と呼ばれていることもポイントとなるだろう。黒と白は対義語であるし、「黒き月」は全く欠けている状態の月(新月)として、「白き月」は全く満ちている状態の月(満月)としてみなし得る。欠けた月、光なき光の受け手という月の様態、それはカバラにおいては女王シェキナーの象徴的表現であった。リリスという存在自体も、カバラにおいてはシェキナーと密接に関係している。リリスは「両面性」を有するシェキナーの半面、即ち「裁き」=「悪」の支配力(ケリーパー)の性格が顕になったものだといえるのだ。『エヴァ』の劇中において、物語全体を支配するこのシェキナーのケリーパー的性格の権化ともいえるのが、リリスの魂を宿しているとされる綾波レイである。綾波レイはまた、ユング心理学的にはほぼシャドウ元型憑依状態=ピッチバード(「ダメな奴」の意)である。ピッチバードは誰に対してもその人のシャドウを体現して生き、また自分自身を否定して生きる。シャドウとは、普段はペルソナ(仮面)を被って、自分自身が知らないふりを決め込んで省みずに抑圧している自分自身、即ち個人的無意識の領域に属するものである。つまり、人は普段、シャドウについて触れられたがらない。綾波レイはしかし、誰に対してもその人のシャドウを体現し、またその人に「裁き」を加え、罰するような嫌みったらしい性格をしている。それは一人目、二人目、三人目において変わりはない。対赤木ナオコ、碇シンジ、惣流・アスカ・ラングレー、碇ゲンドウとのやり取りを見れば顕著であろう。また綾波レイは自らの思考が常に混乱していて自分に対して否定的な思考を露呈している。これが彼女を自縄自縛に陥らせているのは明らかである。また綾波レイは露骨におぞましいものとして描かれもする。これらはまさにピッチバードに特徴的なモチーフにほぼ該当しているのであり、まさにシェキナーの「裁き」の性格が強力で、自らもそのケリーパー的性格に拘束されている状態とも見做せよう。

 一方、王=生命の樹(セフィロート)と見立てられる白き月のアダムとセカンドインパクト、及び使徒との戦いの関連も、このカバラの神話における〈原罪〉の克服としての〈贖罪〉に向けての活動を踏まえることで解釈することができる。先に述べたようにカバラ神話は、シェキナーの「流謫」について、『タルムード』における「「神の臨在」とはいついかなるときも流謫するイスラエルとともにある」という意味以上に、「神自身のある部分が神自身によって流謫させられている」という意味を持たせて語っている。この主体的でありながら客体的な在り方をしている女性的原理のシェキナーにとって試練となること、即ち「容器の破裂」によって形而下的実在となり、シェキナーの中に侵入した「裏側」のものであるケリーポートを打ち破り、その「裁き」の拘束から解放されることがなされなければならない。このカバラ神話におけるシェキナーの試練について踏まえることで、『エヴァ』における「神(アダム)を発見した人間が喜んでその神を手に入れようとした」という赤木リツコの説明から、「他の使徒が覚醒する前に、アダムを卵にまで還元することで被害を最小限に食い止めた」と説明されるセカンドインパクトの真実に、ある一貫した解釈を加えることができる。それは、このセカンドインパクトの真実として語られたこと自体が、そもそも上述したカタルシス的なものとしての、セフィロートの「容器の破裂」と同じに意味に見立てることができるということだ。「他の使徒が覚醒する前に」、というのは時間的な意味以上の意味はない。「使徒の覚醒」は、セカンドインパクトのあった2000年より後、15年経ってから現実化したのであり、それ以前においてはなかった。セカンドインパクト前夜において暗躍していたゲンドウを含めたゼーレらは、アダム(神)を手に入れようとしていた。そしてセカンドインパクトによってアダムを卵にまで還元し、手に入れることに成功している。このことが必要なこととして人為的に目論まれたこと自体、セカンドインパクト以前においては、使徒はまだ「容器の破裂」以前の形而上的実在だったケリーポートと同様のもので、アダム=セフィロートと混在状態にあったと仮定することが出来る要素とみなせる。「容器の破裂」は、形而上的実在としてのケリーポートを根こそぎ形而下化させることでセフィロートを清浄化するカタルシス的なものだった。「使徒の覚醒」は、セカンドインパクトによってアダム=セフィロートの容器を人為的に破裂させてそれを清浄化することによって、形而下化されたケリーポートに該当すると考えられるのである。ゼーレらにおいて、神=アダム=セフィロートの清浄化はそれを手に入れる上で必要なこととみなされていた。そして「被害を最小限に」というのは、これ以上「裁き」=「悪」の支配力をはびこらせず根こぎにするために必要なこととしても行われたということだ。その代償として大爆発が生じ、20億人以上が死ぬという、赤木リツコ曰くの「罰が当たる」。この罰も、ゼーレらにしてみれば、ケリーポートの「裁き」の支配力が成した邪悪なものだったということになるのだろう。そして15年後、使徒が襲来した。アダム=セフィロートから除去されたケリーポートの形而下化されたものが、裏側の世界からシェキナーの内部に侵入し、シェキナー(人間)に破壊的な力をふるい自らの「裁き」=「悪」の活動の脅威に晒すのと同様のことが、『エヴァ』でも生じたのだといえる。ゼーレ・ネルフの双方ともに、このケリーポート的存在である使徒どもを撲滅することが、カバラの〈原罪〉の克服としての〈贖罪〉と同様の行為である補完計画実践のために、悪を根絶する作業として必要不可欠なこととなっているのである。ただし、あくまでも、彼らにおける宗教的意義をアプリオリ的に前提した考察に過ぎないのではあるが。

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