どいのさんが亡くなって、2ヶ月と少しが過ぎた。
その間に年を重ね、歳を重ねて、今日もやっぱり相変わらずな毎日を過ごしている。
誰のためでもなく自分のために、この大きなことについて書いておきたいとずっと思っていたけれど、白い箱の中で横たわるどいのさんをちゃんとみて冷たい頬にも触れたはずなのに実感が湧かなくて、結局何も書けずにいた。
今更何を書くんだろうとも思うけれど、でもやっぱり書き残しておきたいから、書き始めてみようと思う。
初めてどくんごをみたのは2011年だった。
どいのさんと初めて話したのは2012年の公演のときだったけれど、その時の印象はほとんど残ってない。
その年末、クリスマスに、新宿の餃子屋さんでどいのさんに会った。
ひとしきり飲んだあとに笑いながら
「りーさん、どくんごやってみない?」
と、どいのさんが言った。
私はとてもびっくりして、何を言ってるんですかと返したのだけれど、すぐに、
「それは冗談。どくんごの東京公演のゲストで踊らない?」
と言われたのだった。
自分はそんなに人前で踊ってないのに、とか、私なんかが、とか、咄嗟に返した私に、
「りーさんがやりたいかどうかだけだよ。」
とこれまたにっこにこで返してきた。
結局私はやってみたいという気持ちだけで了承したのだけど、自分の踊りをみたこともないどいのさんが、候補になるひとは数多いるだろうに何故私に声をかけたのかものすごく気になって聞いてみると、
「おもしろいひとだなあと思ったから、りーさんの踊りをみてみたい。」
と、やっぱり笑って答えてくれた。
どいのさんは、そういうひとだ。
2013年のツアーが終わったあと、旧コーナーポケットでどいのさんと2人で話す機会があった。
どいのさんは、ゲストで踊った時のことを話しながら私にとってはこれ以上ない賛辞をくれたあとに、
「続けろよ。そしたらまた、一緒に何かできるときもあるかもね。」
と笑った。
絶対続けるよ、と答えたけれど、“絶対”なんて言葉を返してしまうくらい、どいのさんの言葉には威力があった。
どいのさんは、そういうひとだ。
その4年後、私は初めて役者に挑戦することになる。
あるとき、Facebookに「どいのさんがあなたをタグ付けしました」というアラートが出てきた。
なんだろうと開いてみると、
「こんなとこにもりーさんが!」という言葉とともに、昔の日本酒のポスターの写真が添えられていた。
私にそっくりだと思って、思わず投稿したのだと言う。
しばらくして会った時、あれはなんだったんですか!と聞くと、
「やー、面白いでしょ。そっくり!」
と、ケラケラ笑ってた。
どいのさんは、そういうひとだ。
ツアーに参加した2017年、私は本当に何もネタを出せなくて、つきっきりであれやこれやとやってもらった。
私はもう自分を全く信じられなかったけれど、どいのさんは諦めずにずっとずっと付き合ってくれた。
そりゃ途中で降りるってことはあり得ないのかもしれないけれど、そのどいのさんの諦めなさの強さは、その時の私にとっては未知だった。
くらいついて臨んだ1年間は山あり谷ありだったけれど、最後には芝居を続けたいなと思う気持ちが強く残っていた。
どいのさんは、言葉で、身体で、音や光で、芝居の面白さを沢山教えてくれた。“教えよう”とした訳ではないのだろうけれど。
2021年の秋と、2022年の春。
私は性懲りも無く、合宿に参加した。
やっぱり私は(私だけが)全く上手くいかなくて、随分と頭を抱えてらっしゃっただろうと思う。
一度、どいのさんに
「りーさんはしんどい状況に追い込まれるのが好きなんだろうけど、俺は嫌いだし、そんな余裕はない。」
と怒鳴られたことがある。
そんなん好きな訳ないわ!なんでそんなこと言われるんや!と思いもしたけれど、そんなことを言わせてしまったことも、体調が万全ではないどいのさんにストレスを与えてしまっているだろうことも、本当に辛くて、自分が嫌になった。自分はメンバーを外れるべきなんじゃないかと思った。
それでもどいのさんは、次に会った時にはまた落ち着きを取り戻していて、それから後も、何度も何度も稽古をつけてくれた。
何度もカチンコをたたいて、何度も自分の身体で「こう!」って示して、何度も見て、沢山のコメントをくれた。
全く自慢できることではない。
それでも、本当にたくさんの時間稽古をみてもらい演出をつけてもらったことは間違いなくて、未だに自分への嫌悪はなくならないけれど、その嫌悪も引き連れて、また次の何かに取り組んでいくんだと思う。取り組んでいくんだ。
そんなこともあったけれど、春の合宿はとてもたのしかった。
どいのさん、五月さん、みやちゃん、きくちゃん、みほしさん、そしてテルミンとの6人+1匹の稽古や作業と生活。沢山悩んだり笑ったりした。
前年の秋に比べると調子がよかったどいのさんは、思った以上によく食べて「美味しい」って笑ってた。
「りーさん、料理の腕あげたね!」
なんて言うもんだから、食当のときは気合を入れちゃったりした。
本当に、たのしい毎日だった。
どいのさんと五月さんが引っ越しをするとき、その作業を少しだけ手伝い、春日井に荷物を届けた。
1週間弱ぶりに会うどいのさんは、そのときかなり調子が悪く本当にしんどそうで、私はショックを隠せてなかったかもしれない。
それでも一緒にお茶をして、少しの間、話をした。
どいのさんに伝えたいことは沢山あるけれど、それを言う勇気もなければそんなこと言うべきでもないと思って、仕事の話や世間話を沢山した。
どいのさんは別れ際に、「京都に訪ねに行きたい人がいてね」と言って笑った。
京都来てね、私もまた来るね、と言って、握手をして別れた。
私がどいのさんに会ったのはそれが最後だ。
京都に帰ってきてみほしさんに会う機会があって、どいのさん調子が悪そうだった、と話しながら、私は泣きじゃくってしまった。
厳しい状況だと感じたことは何度かあったけれど、これまでで一番そう感じた時だったんだと思う。
それでもそのあと、どいのさんは少し調子を取り戻したようだった。
私は何度かどいのさんにメッセージを送った。
村上がホームラン!感動した!
って、言い合った。
メッセージの最後にはいつも、また会いにいくね、またね、って書いた。
どいのさん。
どいのさんは、諦めないひとだ。
これというものを、強く肯定するひとだ。
そして、いつも無邪気というか、いたずらっ子というか、遊び心というか、深くて強い思考のそばにそういう明るさを感じることが多かった。
その飽くなき欲求に心配になることもあったし、おいおいどいのさーん!って思うこともあったけれど、やっぱどいのさんはどいのさんだなーって思わせてくれる。
だいたいいつも。いつもそう。
これは全て、“私にとって”の思い出話。
思い出話なんてくだらないって時々言っていたどいのさん。
でも、時々嬉しそうに思い出話をしているどいのさん。
ほんと、思い出話なんてくだらないね。
でも、沢山の時間と記憶に、やっぱり不甲斐ない私は時々にやってすると思う、これからも。
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