口癖

"きっと"

「君はこの言葉をよくつかうね」
と、誰かに言われたことがあった。
誰だったのかは今となっては全く思い出すことができない。
私はその時はじめて、その言葉を多用していることに気が付いた。きっとというのは果たして願望か、信頼か、はたまた絶望か。
私にとっては「祈り」だったのかもしれない。
祈るだけということは好きではなかった。しかし祈りが自分を救うこともあると思っているのだ。
そう祈ることこそが実際の物事を遠ざけるみたいで楽だから。

―そうだったか?

書きながら自分に問う。

私は最近、私に片想いをしているひとから本を貰った。その本の作者は、元恋人が好きだったので嫌いだった。できるだけ避けて、絶対に読んでやるもんかと思っていたので その本を彼が読んでいると知ったときは内心「うわっ」と思った。しかしながら私はその元恋人のことも、作者のこともとうに吹っ切れてどうでもよくなっていたので、まあ読んでみるかという気持ちになった。その作者の書く文章は元恋人の書く文章によく似ていた。ああ影響を受けていたのだろうなという感じだ。
世にいう「エモーショナル」みたいな、如何にも現代っ子が好きそうな雰囲気が私の肌には合わなかった。表現が好きなところもあったが、やっぱり私はこの作者の本が好きではなかった。読まなくても読んでみても同じだったのがなんだか腑に落ちて、私は私の意思があることに安心したのだった。

私は"きっと"という言葉が好きだ。
祈りとしてのその言葉が好きだ。私は私の好きなものははっきりさせておける私が好きだ。
かと言って嫌いなものを否定することはしない。自分の嫌いなものも きっと なにか感じるものがあるからこそ嫌いになるのだ。自分の「嫌い」が、好きなひともこの世界には溢れている。
私の口癖に気がついた 名前も顔も思い出せない貴方は、私を少しでも好きだっただろうか。

きっと、そうだったのだと祈る。

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