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哲学思想の基礎知識②

前回の続きです👇

前回は中世ヨーロッパ、ルネサンスで哲学が息を吹き返した~
ってところまででした。


🌸合理主義哲学とは

ルネサンス以降、盛んになった「合理主義哲学」が何を考えたのか?

これを一言で述べると、
人間は理性によって、世界の真理を解き明かせるのか?!
を徹底的に究明しようとした。

何故か?!

このルネサンス以降の時代では、天体の動き・数学・芸術等、様々な発見が相次ぎました。

しかし、この様々な発見について「本当に正しいのか?その正しさは何によって保証されるのか?」
と考える人達がいたのです。

人間の五感で観測した事実の正しさ!

が担保されないと、その上に積み上げたいかなる大発見の正当性も保証されないのではないか?と氣付いたからです。
例えて言うなら、誰も住みたくない基礎工事のガタガタな建物、「砂上の楼閣」になってしまう。カメラのレンズが歪んでいたら、映るものすべてが歪んでしまう。
だったら、まずは「基礎工事」「レンズ自体」を確かなものにしよう。話はそれからだ! ということですね。

これが、認識論と言われるテーマです。

🌸合理主義哲学の大まかな流れ

まず、デカルトさん (ルネ・デカルト:1596年3月31日 ~1650年2月11日 フランスの哲学者)
による「考える自分」の発見。

「我思う。ゆえに我あり。」 有名な名言ですね。

彼は、「考えている自分の存在はどう足掻いても否定できない!」という偉大な事実を発見します。

この絶対の真理を足掛かりにすれば、人間は理性で全てを解き明かせる。
「認識する自分」の正当性を足掛かりに、あらゆる事実をロジックの積み重ねで探り当てられる。という哲学を編み出した。

🌈🌈🌈

これに異を唱えたのが
ヒュームさん(デイヴィッド・ヒューム:1711年5月7日~1776年8月25日スコットランドの哲学者)

いや、「考える自分」も「神」も「世界」も「正しいという感覚」も、所詮経験を統合して個人が勝手にあると感じている架空の概念でしょ?

全ては経験に起因する虚像なんだから真実なんて到達し得ないよ。

真実は経験から推定することしかできず、「絶対普遍の真理は存在しない。」という考え方です。

これは、経験論と呼ばれます。

🌈🌈🌈

この合理論と経験論の喧嘩の仲裁をしたのが、
カントさん(イマヌエル・カント:1724年4月22日~1804年2月12日ドイツの哲学者)

全部経験に集約されるんだったら、人の数だけ「時間・空間」の捉え方があってもいいはずだ。
でも、わたしたち人類は経験以前に普遍的に共有している「人間精神における普遍のルール(認識のフィルター)」がある。これは事実ですよね。

そのルールの中で理性を働かせ、真理に迫ることは可能(デカルトさんOK🙆‍♀️)
それにルール適用後の経験から真理を導くことも可能(ヒュームさんんもOK🙆‍♀️)

「ロジック積み上げ型アプローチ」も「経験から類推するアプローチ」もどちらも成立する!
しかし、その「ルール以前の世界=モノ自体」を認識することは不可能!
何故なら、人間はあらゆるものを「フィルター」を通してしか認識できなのだから。

カントは
「合理論と経験論の統合」
「人間の認識の限界の提示」
を一人でやってのけて、哲学をあらたなフェーズに導きました。

が、しかし
このカントの思想をちゃぶ台返しでひっくり返す人物が現れます(´゚д゚`)

ということで、今日はここまでにします。次回も面白いです~\(^o^)/

今回も引用・参考です👇 

✨🌎🙆‍♀️今日も最後までおよみいただき
      ありがとうございました🙆‍♀️🌎✨

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