量子化学メモ

古典力学と量子力学

古典力学は、実在論的あるいは決定論的であるのに対して、量子力学は、非実在論的あるいは確率論的である。
実在論とは、「観測に先立って物理量の値は確定している」という考えである。
古典力学では、古典ハミルトニアンを書ければ、ハミルトンの正準方程式に従って、任意の時刻の位置と運動量およびそれらの関数であるすべての物理量を求めることが可能である。※1,2

※1ただし、可積分形に限る。
※2ラグランジュ方程式やニュートンの運動方程式でもいい。
一方、量子力学では、物理量の値は観測するまで決定しないし、観測の度に異なる値を返すことが多い。また、値が連続的ではなく離散的になっていることも多い。これらの点は、古典力学とは大きく異なる。
量子力学で予測するのは、物理量の値そのものではなく、とある値を返す確率である。
その確率リストを生み出すのが波動関数あるいは状態ケットである。
波動関数を求めるためには、量子力学的ハミルトニアンの固有値固有ベクトル問題であるシュレーディンガー方程式を解けばよい。※3
量子力学的ハミルトニアンは、古典ハミルトニアンにおける運動量を空間微分で表し直すことで書くことができる。(量子化の手続き)※4
※3ハイゼンベルクの行列力学でもファインマンの経路積分でもよい。密度汎関数法(DFT)でもよい。これらのハイブリッドでもよい。
※4交換関係をベースにしてもよい。

時間に依存するシュレーディンガー方程式から始める

時間に依存するシュレーディンガー方程式における波動関数を時間項と位置項に変数分離できると仮定すると、時間に依存しないシュレーディンガー方程式と、位相を教えてくれる式の2つに分けることができる。
このうち、時間に依存しないシュレーディンガー方程式は、ダイナミクスに立ち入らない範囲において、化学で専ら多用される。※5,6

※5光の吸収スペクトルを正確に予想したいときなどは、時間に依存するシュレーディンガー方程式に立ち直る。
※6定常状態の範疇で散乱問題を考える際は、定常状態であっても、時間の関係する位相の項を思い出さなくてはならない。

ボルンオッペンハイマー近似

時間に依存しないシュレーディンガー方程式であっても、多体だと解析的に解くことが不可能であるため、電子に比べて圧倒的に重い核の運動はしないと仮定して、自由度を削減する。
これをボルンオッペンハイマー近似という。※7,8
つまり、このときシュレーディンガー方程式を解いて得られるエネルギー固有値には、核の運動エネルギーは入っていない。また、核同士の反発エネルギーは定数値である。※9
波動関数の引数には、電子の位置は独立変数としてそのままあるものの、核の位置は固定されたパラメタである。
そのため、ボルンオッペンハイマー近似後は、電子の波動関数と電子のエネルギーを求める作業になっていることに留意されたい。

※7ボルンオッペンハイマー近似がよい近似とは言えない状況も存在する。※8なお、この近似をした後のシュレーディンガー方程式でさえ、解析的に解かれているのは、1中心1電子系(水素様原子)だけである。
※9電子エネルギーと核核反発エネルギーを足したものを断熱ポテンシャルエネルギーという。

1中心1電子系で解く

時間に依存しない電子に関するシュレーディンガー方程式を1中心1電子系について解いてみよう。
このとき電子がうけるのは中心力ポテンシャルであるから、直交デカルト座標ではなく、極座標を用いるのがよいだろう。
波動関数は、動径方向 R(r)と角度方向 Y(θ,φ)に変数分離できるとして、それぞれの方程式を解くと、エネルギーはrのみに依存していて、数学的に生じた主量子数nを以って飛び飛びの値をとることがわかる。また、角度方向に対する方程式から生じた方位量子数lや磁気量子数mの組み合わせのぶんだけ縮退していることがわかる。つまり、1中心1電子系のエネルギー固有値は主量子数nだけの関数になっている。※10
また、上記3つの量子数(n,l,m)に対して波動関数がどのような形をしているのかもわかる。
以上で、1中心1電子系のエネルギー固有値と波動関数を解析できた。
※10 ただし、スピン-軌道相互作用を考慮するとエネルギーに微小な差がでる。つまり、厳密には波動関数は位置のみだけでなく、スピン状態も引数に含めるべきである。スピンは、相対論的量子力学のディラック方程式から自然と導かれる概念ではあるが、数多くの実験で無視できないため、天下りに認めてもよいとは思う。

ハートリー法(独立電子近似, 平均場近似)

次に、電子が複数ある場合つまり、多電子系のシュレーディンガー方程式を適切な近似のもとで解いてみよう。
先も述べた通り、多体問題を(解析的にも数値的にも)そのまま解くことができないので、全電子波動関数は、特定の1つの電子の位置を引数にもつ1電子波動関数の総乗で表せると大胆にも仮定する。これを独立電子近似という。こうして解く方法をハートリー法という。
ここでは、複数の電子が同一の状態を占めることができないというパウリの排他原理を認め、「電子を詰めていく」ような考え方をする。※11,12,13
波動関数を1電子近似したのなら、ハミルトニアンの各項もすべて1電子演算子にしたいものである。電子に個性はないので、それぞれが感じるポテンシャルは、平均的なものであろうと仮定する。※13 こうして、電子iと電子jの2電子演算子を1電子演算子に置き換える。こうしたハミルトニアンをハートリー演算子といい、方程式をハートリー方程式という。近似のことを平均場近似という。
1電子演算子には、これから解くべき波動関数が使われており、自己無頓着な形となっている。なので、ハートリー方程式はSCF計算という繰り返し計算によって解く。当てずっぽうで当てはめた波動関数と、解いて得られた波動関数とが一致するまで、波動関数を変えて計算を繰り返すのである。
この際、真の波動関数に近いほど、エネルギー固有値が小さくなるという変分原理に基づいて繰り返し計算をしている。

※11 "電子を区別できないということ"及び"排他原理"は、"行列式の歪対称性"と"同じ行か列があったらゼロ"という性質によって見事に表現できる。このことは次の節で説明する。(スレーター行列式)
※12 外側の電子は内側の電子から遮蔽を受けるので、1中心1電子系のときとは違い、縮退が解けて、エネルギーは主量子数nと方位量子数lに依存する。
※13 電子に個性はないといいながら、「電子を詰めていく」とはどういうことやら?と疑問に思われた方は、その違和感は正しい。これが、ハートリー法の問題点である。次に、この点を改善したハートリー・フォック法(HF法)を説明する。

ハートリー・フォック法(区別できない性質を保つ)

ここからは、ハートリー法が電子を詰める際に区別をしてしまっているという問題点を克服したハートリー・フォック法(HF法)について説明していく。
ハートリー・フォック法では、スレーター行列式を用いて波動関数を表す。
ハートリー法のときとは異なり、全ての電子があらゆる軌道に詰められる可能性を網羅している。これによって、電子が完全に区別されなくなっている。
ハートリー・フォック法におけるエネルギー固有値には、1電子積分項と2電子積分項の和となっている。2電子積分項は、さらに2つの項の和と見なせて、それぞれ、クーロン積分および交換積分と言われる。前者は古典論的に解釈することが可能出るが、後者はパウリの排他原理から生じる完全に量子論的な効果の現れである。
やや説明を省くが、実際に解くときは、ハートリー・フォック方程式をユニタリ変換した正準ハートリー・フォック方程式であり、この形は、初期に学んだ時間に依存しないシュレーディンガー方程式と同じである。
解は無数に存在するが、対応する固有エネルギーが低い順に、電子を詰めてゆけば、それが多電子系の実状を示すことになる。
そうすれば、イオン化ポテンシャル電子親和力を算出することができるようになる。
ここまで、スピンについてよく考えてこなかったが、波動関数は空間座標とスピン座標を引数にもっていたことを忘れてはならない。
αスピンとβスピン電子に対して共通の空間軌道を用いる方法を制限ハートリー・フォック法(RHF法)といい、別々の空間軌道を用いる方法を非制限ハートリー・フォック法(UHF法)という。※14
特に、開殻系において共通の空間軌道を用いる方法を制限開殻ハートリー・フォック法(ROHF法)という。
閉殻偶数電子系をRHF法で解いたとき、固有エネルギーは、1電子積分項やクーロン積分項は、任意のスピン状態の電子対に対して働くのに対し、交換積分項は平行スピンの間に対してのみ働く。そのため、スピン状態(一重項か三重項か)によってエネルギーが異なることがわかる。
空間軌道は、変分法あるいはスピン座標の積分によって求められる。
UHF法の方がROHFよりもエネルギーが低く、また、計算時間が速くなる。
しかし、UHF法だけはS^2に対する固有関数になっていないため注意が必要である。これは想定しているのとは異なるスピン多重度の状態が混入してしまうこと(スピン汚染)が原因である。これが誤差を生むことになる。
※14 ここ辺りの議論は式を見ないとわかりにくい。

HF方程式を解くためのローターン方程式(微積分方程式から固有方程式へ)

ここまで、ハートリー・フォック方程式がよい近似の式でありそうなことを述べたが、実際に計算をする際は、さらなる工夫が必要である。
なぜなら、ハートリー・フォック方程式は、微積分方程式であり、数値計算ですら困難だからである。
そこで、軌道関数を既知の関数(基底関数)で展開し、その展開係数(分子軌道係数)だけを調節していく解き方を行う。
展開係数(分子軌道係数)を求める式は、ローターン方程式という行列の固有方程式である。
微積分方程式に比べて、固有方程式は各段に数値計算しやすい。
基底関数が多いほど精度はよくなるが、計算量は跳ね上がるため、ふさわしい基底関数を用いたい。
分子は原子で構成されているのだから、分子軌道の展開には、原子軌道を基底関数として採用するのがよかろう。この考えあるいは近似法をLCAO近似という。※15
では実際、どのような関数形の関数が基底関数として採用されているのかというと、水素様原子の解析解であるスレーター型軌道(STO)※16 や、それに似ていて計算効率のよいガウス型関数(GTO)※17 が用いられている。現在は後者が用いらることがほとんどである。
固体の物性計算では、平面波基底を用いることが多い。
軌道の歪み具合を表現したいときは、1つ軌道角運動量の大きい関数を基底関数に含めると良い。これを分極関数という。
アニオンや励起状態の軌道の膨らみを表現したいときは、diffuse関数を用いると良い。
なお、これらの基底関数はたいてい互いに直交していない。
基底関数を直交するようにする操作は、重なり積分を対角化することに相当する。
ローターン方程式を数値計算するときも、分子軌道係数が自己無頓着になるまでSCF計算を繰り返す。
全電子エネルギーは、密度行列を用いて表されることが多い。
基底関数を理想的にしたとき※18 に得られるエネルギーを、ハートリー・フォック極限といって、計算をする際の基準となる。
※15 逆に言えば、真の軌道関数を効率よく再現できる基底がこれ以外にあるのならば、どれをとってもよい。ただし、その基底で張られる空間のなかに、真の軌道関数が収まっていることが望まれる。
※16 exp(-ξr) の形
※17 exp(-αr^2)の形
※18 理想的という語は、基底関数で展開をするという近似による誤差がなくなるような極限的努力をした結果という意味で使った。

電子相関

ハートリー・フォック極限のエネルギーは、(BOP近似後の)電子シュレーディンガー方程式の固有エネルギーよりも大きな値となるはずである。
これらのエネルギー差のことを電子相関エネルギーE^corrという。
つまり E^corr = E^el - E^HF。
電子相関エネルギーは、全電子エネルギーと比べたら微々たるものであるが、何かの反応の活性化エネルギーと比較すると無視できない大きさであり、電子相関も考慮すべきである。※19
例えば、遷移状態構造における軌道関数は、反応物と生成物のそれの重ね合わせとして表現するとよい。
このことは、配置間相互作用法(CI法)と呼ばれ、結合係数を配置間相互作用係数(CI係数)という。また、分子軌道係数とCI係数を同時に最適化する方法を多配置SCF法という。
また、HOMOやLUMOあるいはそれ以上離れた軌道を組み合わせて軌道関数を記述する方法をCSAASCF法という。
結合生成の際の軌道の入れ替わりが起こる際は、共鳴が起こりやすい。(静的電子相関)このようなときは、共鳴する全ての電子配置の線形結合をとることが求められる。
一方、電子が狭い領域にいるときに電子の衝突に由来する電子間反発のことを動的電子相関という。これは、分子の結合領域で重要となり、変分法によるSDCI法や摂動法によるMP2法などのHF波動関数から電子相関を取り込む単参照の方法や、MR-SDCI法やMR-MP法という多参照の方法が用いられる。
※19 電子数が少なければ電子電子反発を摂動として考えることもできるだろうが、多くの場合は、エネルギー値さえ真値に近づけばよいということで、CI法などが用いられる。つまり、原理が改良されるというより、数値計算の方法が改良されるわけだ。

まとめ

量子力学では、物理量の値は観測するまで確定していない。
波動関数や固有エネルギーを知るためには、シュレーディンガー方程式を解けばよい。
解析的に解けるのは、せいぜい1中心1電子系だけであり、適切な近似や工夫が必要となる。
核を固定するボルンオッペンハイマー近似は、ほとんど基本的に行う。
多電子系に対しては、独立電子近似を行う。
しかし、この近似によって、電子相関の誤差が生まれる。
電子の区別できない性質を組み込んだスレーター行列式を使ったのが、ハートリー・フォック法であり、この方法は現在の主流の方法である。
ハートリー・フォック方程式という微積分方程式を数値計算的に解きやすい固有方程式にしたのが、ローターン方程式である。
どのような基底関数を用いるのかが、計算精度と計算コストの問題を左右する。
これらの方程式を解くにあたっては、SCF計算という繰り返し計算をしている。



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