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「共有ビジョン」と「ビジョン共有」のあいだ - 学習する組織#4

結構違う。対極くらいに違う。

「システム思考」(#1)という綜合のツールを使って、自分そして他者の「メンタルモデル」(#2)を描き、それらを重ね合わせて組織がどの様なシステムにいるのかを初めて理解する(「チーム学習」(#3))。そんな流れで進めてきた。今回は「共有ビジョン」。既に#1〜#3の流れがあればもはやそれほど語らなくてもいい気もしてきたけれど、一応5つのディシプリン一つずつ記事化しておいた方がまとまり良いだろう。なので今回は「共有ビジョン」について掘り下げる回だ。

ここでもよくある誤解から入りたい。「共有ビジョン」(Shared Vision)は、「ビジョン共有」(Vision Sharing)ではない。同じ意味に感じられるかも知れない、でも違う。結構違う。対極にあるくらいに違う。

「ビジョン共有」(Vision Sharing)とは、「ビジョンを共有する」(Visionを、 Shareする)という動詞を名詞化したものだ。だから、主語(誰か)が前にくる。ここから想起されるのは、「AさんがBさんにビジョンを共有する」という一文だ。更にこれを具体的にしてみよう。「社長が、社員にビジョンを共有する」。どうだろう。昨日も今日も、そして明日も明後日も、世界中で行われていそうな風景が目に浮かぶ。朝礼で。タウンホールミーティングで。Videoレターで。伝える側がいて、伝えられる側がいる。それが「ビジョンを共有する」という言葉に込められているニュアンスだ。

「ビジョンを共有する」と言ったとき、もう一つここに含まれているのは手段、メディアだ。そして通常それは「言葉」になる。「弊社のビジョンはXXによる社会貢献である」的な美辞麗句が「伝えられる」。さて、「共有ビジョン」がこういうシロモノだったとしたら、どうだろう。腹落ちするだろうか。

折角なら推理小説の様に緻密な物語を

「共有ビジョン」を、「誰かが誰かにビジョンを伝えた結果」と捉えたとしたら、せっかくの5つのディシプリンのストーリーがここで破綻してしまう。せっかく「他者」同士がメンタルモデルを共に眺めて一つのシステムを理解する「チーム学習」を行ってきたのに、それとは別にビジョンが誰かから伝えられたら、推理小説の最終章でなんの伏線もなしに突然現れたお隣さんが犯人でした、くらいには興醒めしそうだ。

そうそう、せっかくの骨太ストーリーに乗ってきたのだから、その流れでいこう。「共有ビジョン」とは、「チーム学習の結果生まれるもの」だ。

本質的なチーム学習が起こったとき、そこに携わっていたすべての当事者が、それまでの自分の視野から離れ、自己をシステムの一部として認識する。そのシステムに含まれる他者と自分が繋がっていることを理解する。そして、ディスカッションが終わり、ダイアログが始まる。「このシステムを変えるためには、どのような介入が有効なのか?」

桃太郎とオニ太郎のような単純な話ではないだろう。むしろ簡単には解けない知恵の輪のようなものだろう。でも、「チーム学習」モードになっている輪であればそれは可能だ。やがてチームはアイディアに到達する。この目指すべき新たなシステム、そして各々が取るべきアクションを、一人ひとりが自覚する。もしかしたらそれは言葉では表現されないかも知れない。沈黙の一時ですらあり得る。でもそのとき、チームは確かに一つのビジョンを持つに至っている。誰かが誰かに伝える、ではなくて、誰もが一つのビジョンを観ている。

誰からともなく鋤と鍬と斧と鋸を手にする

「共有ビジョン」を得たチームに、もはや言葉はいらない。おそらく桃太郎もオニ太郎も村人たちも、誰からともなく鋤と鍬と斧と鋸を持って、山に向かうことだろう。そして、協力して木を切り始めるに違いない。この状態のチームは「最強」だ。なんのために何をしなければならないのか、それがどれくらい大事なことなのか、を一人ひとりが腹に落としているチームは、最高の効率性を発揮する。問題が起こっても自己修復できる。エンゲージメントサーベイなんてしなくても、エンゲージされていることは明らかだ。

ビジョンは「共有する」のではなく「共有される」。こうして最強組織が生まれる。

・・・あれ?「学習する組織」のディシプリンは5つのはずだ。まだ4つしか語ってないのに最強組織が出来上がってしまったらおかしいのではないか?5つ目はいらないのか?

ご安心を。5つ目のディシプリン「セルフマスタリー」も、間違いなく最強組織(学習する組織)のために欠かせないディシプリンだ。どういうことなのかはまた次回。


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