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自分にとっての戦争反対

コインランドリーで、ランチパックを食べながら、コーヒーを飲む。備え付けられた机の上に、洗濯が終わるまでの時間つぶしに選んだ本と、コンビニスナック、飲むヨーグルト。後ろからはいろんな洗濯の音が聞こえてくる。大型洗濯機の水を回す音、乾燥機が揺れる音、顔も知らない人たちの洗濯物が、ぐるぐるぐるぐる回っている。コインランドリーを利用している人たちの生活の音。用意した本を読むことなく、なんとなく落ち着かなくて、スマホをいじってしまう。思考も一緒にぐるぐる回る。

先日、親しい人から、戦争反対と、ウクライナの人々へのサポートを目的とする集会が、新宿南口で開かれるということを聞いた。

SNSでもニュースでも、ロシアのウクライナ侵攻に対する人々の反応は日々更新されており、ひたすらに悲しむ人、疑問を呈する人、具体的にどう行動すべきか提示する人、マッチポンプだと騒ぐ人、冷静に持論を展開する人と、様々な情報や意見が、凄まじい勢いでタイムラインを流れていくのを、わたしはぼんやりと見ていた。そのときのわたしの頭のなかは、こんな感じ。

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意味のわからないイラストですみません。心は確実に傷ついていたし、悲しみややるせなさや、そういう感情はわかりやすく心の中に吹き荒れる。でも、目の前を怒涛のように流れるのは、立ち止まるのに十分な言い訳や、今起きていることへの、自分の気持ちの不確かさの川で。しかもその川は、確実に「無関心」の方向に流れようとしていた。そして、その川を眺めてガチガチに体育座りした自分がいるのは、結局、なんにも動かされない地面だった。

知識が足りないだけなんだ。そう思って不用意に手を出した戦争反対やロシアやウクライナの記事には、どんどんリンクが繋がっていて、わからない言語を検索すれば、最終的に「日本の若者は何故社会運動に否定的なのか」や「日本人は政治的会話を避ける傾向にある」みたいな、そういうところにたどり着いたりした。なんにもピンとこなかった。戦争に反対する為の、確かな知識や意見はわたしにはないとわかっただけだった。ただ検索が下手なことや、理解する頭が足りていないということも勿論あるけれど、自分が戦争に対して感じているシンプルすぎる気持ち、日々の忙しさにかまけて深掘りする労力を割かないこんな人間が、戦争反対なんて大層なことを、安易に口に出したり主張してはいけないものなのかもしれない、とますますガチガチに体育座りを決め込んだ。そもそも、わたしは今、戦争が起きているこの状況の、何が気に入らないんだろう。だって、わたしはあんまりにもその場所から遠い。

なんだかもやもやした気持ちを抱えたまま花粉症になり、教えてもらった集会が開かれる日になった。体育座りしたわたしは、こんなご時世にたくさんの人たちを集めて集会をするなんて、そんなの行きたくないと決めつけて、本当は気になっているのに、煮え切らない返事をした。そうして洗濯するため、いつもどおりコインランドリーにのろのろとやってきた。

そうして、この文章の最初にもどる。スマホをいじりながら、やっぱり気になってしまったわたしは、今日開かれる集会No War 0305のリンクに飛んだ。参加者の欄には著名なアーティストが数多く名を連ねていて、アーティストだけではなく、日本に住むロシアの方や、哲学者の方、ウクライナ人のモデルの方など、様々な人の名前があった。その人達のひとりひとりが持つ発言力や、考えはきっと磨き抜かれているんだろう。わたしはそんなふうに思った。知っているアーティストの名前を見て、わかりやすくむずむずと心が動くような気がしたが、やっぱり対岸で行われているように感じる。そして、この集会を開くきっかけになったアーティスト、GEZANの方のステートメントにたどりついた。マヒトゥ・ザ・ピーポーさんが書いた、文章。

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GEZANの音楽を聴いたことはほとんどない。マヒトさんのことも、失礼ながら、赤い服を着ているということ以外は知らなかった。その人が書いたステートメントを読み始めたわたしは、いつの間にか体育座りから寝転んだ体制になっていることに気付いた(場所はコインランドリーなので、心のなかの話です)。リラックスしている。砂地に染み込む水のように、こういう文章を求めていたんだと、あっという間に最後まで読んだ。

「群衆の列の一番後ろで小さなウクライナの旗を振るおばあちゃんが「家にいても泣いてるだけだからはじめてデモに来たの」と自分に小さな声で話してくれた。自分も同じ気持ちですと伝えた。
はたしておばあちゃんが振る小さな旗は何も意味がないのだろうか?そんなことを思っていた。」

「当たり前に外に出られること、人に会えることの喜びと、その同じ分だけそれを奪った戦争というものについての憎悪に輪郭を持ちたい。」

「ほしいのは熱狂ではなくそれぞれの実感でたどり着いたNO WAR。そして言葉にすることには確かに意味があると認め合いたい。」

(それぞれ、原文から抜粋)

この前後の文章との繋がりも勿論大事なので、勿論原文を読んで頂きたいと思うのだけど、抜粋させて頂いた部分は、戦争に対して頑なだった気持ちを解してくれた。そして、改めて考えさせてくれた。考えても良いと言ってもらえた気がした。洗濯が終わった。

わたしが気に入らないのはなんなのか。なんでもない馬鹿話をして、酒を思い切り飲み、喫茶店に行って珈琲を飲んで、本を読んでゲームして、仕事でばたばたと忙しく動き回り、一日の半日を寝て過ごしてしまうような、そんななんでもない日常を構成する、ひとつひとつに少しでもヒビが入るのがたまらなく嫌なのだ。戦争は人の心にヒビを入れる。悲しませる。個人差はあっても、そのヒビは大きくなって、ヒビを見た人の心にも更にヒビを入れる。そんなものあってたまるか。人の生活を翳りで塗りつぶしていいわけがない。わがままレベルかもしれないけど、シンプルすぎて笑われてしまうかもしれないけど、これが、わたしにとっての戦争反対だ。

そして同時に、体育座りをやめて、自分のペースで知っていけたらと思った。ゆっくりでもいいから、自分の気持ちや生活を大事にしながらでも、声はあげられると思った。そしてそっと、ほんのすこし、ウクライナを支援する団体に募金した。砂の一粒でもないよりはマシだ。

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家に帰り洗濯物を部屋干しして、No War 0305」(こちら、配信のリンクです)の配信を見ながらこの日記を書いた。書いていて感情的になってしまった部分もあるし、不快にさせてしまった部分もあると思うが、忘れないように書いておきたかった。日常をただ生きているだけでいっぱいいっぱいだけど、すべての人が同じ温度で戦争反対を唱えるなんて不可能だ。わたしの温度は限りなく低いけれど、わたしの心は戦争は嫌だと思っている。そうはっきりと思えただけでも、もやもやがすこし晴れた気がした。

だいぶ長くなってしまいましたが、ここまで読んでいただいた方、ありがとうございます。とりとめのない文章ですみません。そして、コロナに対して、配慮と準備をした上で、「No War 0305」という集会を開催した関係者の方々、参加した方々、本当にお疲れ様です。最後、GEZANの演奏が始まりました。日が暮れてきました。完走できますように。

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