昔の自分への助言 日記について

小学生の頃、毎日日記を書く宿題があった。より正確に言うと、日記を書き、親に見せ、学校に提出し担任のコメントをもらう、というもの。
私はこれが大の苦手で、毎日日記帳を前に何も書けず苦痛な時間を過ごしていた。

宿題を見てくれる母は「何でもいい、短くていいからとにかく書きなさい」とよく言っていた。母からのプレッシャーを横に感じて日々絞り出した文字はどれも駄文の極みで、短くて、本当に中身が何も無かった。
そんな、苦しみながら生み出した日記たちは、もちろん誰かに褒められたことはなかった。
小学校卒業まで続いたあの苦痛な時間は私に何をくれたのだろう。作文への苦手意識かな。

恐らくだが、あのときの私は日記を書くことそのものよりもむしろ、その周辺のものに困らされていたように思う。
親や担任の先生に日記を見られるから、何か特別なことを書かないといけないと思った。
何でもいいと言われ、逆に何を基準にすればいいか分からなかった。
短くていいと言われ、逆に長く書いてはいけない、短くまとめて書かないといけない、うまくまとめられない、と筆が止まった。
それから私の性格の問題で、正しいことを書かねばならない、不正確なもの、不明瞭なものは書いてはいけないと考えていたため、何も書けなかった。

今にして思えば当時の私に足りないものは明確で、それは「定型」と「模倣」と「妥協」だった。
よくある日記の文章を探し、それを自分の経験などに置き換え、日記帳に書く。
それだけで日記の文章としては十分なはずだ。
大人になった今だって、時々ビジネスメールはそうやって、ネットで見つけた文を参考に作ったりしているわけだし。

自分が無意識に身に着けている枷と、他人が要求するものとのギャップに、もっと自覚的でありたかったなあ。
強大で、それでいて曖昧な壁を目の前に、自分ができる精一杯の背伸びの小ささに呆れて、身動きが取れなくなっていた。本当は壁なんてなく、ただ平らな道を数歩進めば良いだけだったのに。

もし私の小さな娘や息子が、そのうち日記を書くことになり、同じように日記が書けず困っていたら、そんな話をしたいと思う。
子育ての難しいところは、昔の自分が欲しかった言葉がそのまま、子供たちにとって欲しい言葉かどうかはわからないところ、なわけだが。

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